Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

  第7回 宇佐航空隊平和ウォーク

      
5月9日の朝日新聞大分版に興味深い記事を見つけた。「豊の国宇佐市」が終戦の昭和20(1945)年3月18日の最初の宇佐空襲を撮影した米軍の動画映像を入手したと発表。しかも、その映像が14日の宇佐航空隊平和ウォークの際に公開するというのである。これを見逃す手はないと、ダボハゼは一発で食いついた。
 高速無料の別府宇佐道路を30分、宇佐から柳ヶ浦方面へ向かうと、県内有数の穀倉地帯はこの時期すべて麦畑である。すでに黄金色に熟れているもの、まだ青々としたものなどさまざまな品種の麦が麦秋の平野を彩って、強い風に穂が波打っている。
ウォークの開会まで40分もあるので、会場までの途中、見学コースに入っている城井1号掩体壕に寄ってみた。
    
これは平成7(1995)年に宇佐市の史跡に指定されているが、戦争遺跡の文化財指定は、沖縄の陸軍病院跡の防空壕に次ぎ全国2番目の指定だそうだ。入り口付近には、杵築沖から引き上げられたゼロ戦のプロペラとエンジンが展示されている。ここの敷地はきれいに整備されて、平和公園となっている。
    
さて、開会式会場は柳ヶ浦高校のグランドの一角だったが、挨拶、準備運動に続いて30人程度の班5つに別れ各戦争移籍の説明をガイドに聞きながら宇佐平野を約10キロを歩くという平坦なコースである。9時15分出発。
1.忠魂碑
    
この宇佐海軍航空隊忠魂碑は昭和20(1945)年に宇佐航空体内に建てられたが、その後の空襲で倒壊し畑に埋まっていたものを民間人が戦後柳ヶ浦高校の斜め向かいのこの地に移築したものである。日独伊三国同盟に反対した海軍三羽ガラスの一人、米内光政の揮毫。傍らには、この地から特攻に出て行った21歳から27歳までの海軍予備学生74名の氏名が刻まれている。柳ヶ浦高校野球部員は毎年この戦跡巡りウォーキングに参加しているというが、今日もガイドの説明に熱心に耳を傾けていた。ほぼ同じ年代の若者たちが特攻で散華していったことを知って、どのような感想を持ったのだろうか。この忠魂碑周りの清掃は柳ヶ浦高校野球部員たちが行っているという。
2.柳ヶ浦小学校
柳ヶ浦小学校は海軍航空隊に最も近い学校で、当時は「三洲国民学校」と呼ばれていたが、戦争末期は軍が使用し、児童たちは近所のお宮で授業を受けていた。昭和20(1945)年4月21日の空襲で校舎は壊れ、宇和島から派遣されていた予科練生など多くの人が亡くなった。そのときの空襲で、勤王の思想家柳田清雄の石碑が倒壊し、今はその壊れた石碑の横に新しく再建されている。この石碑の東側の塀の一部には、米軍の機銃掃射の弾痕が今なお生々しく残っている。また、校庭の一角には当時の航空隊の正門門柱が移築されている。この門柱は、7年前にスーパーの浄化槽工事中に偶然発見されて現在地に移されたものという。これらの説明は、柳ヶ浦小学校の6年生たちが、調べ学習の成果として私たちにガイドしてくれたものである。
    
    
3.生き残り門

柳ヶ浦小学校が空襲を受けたとき、日豊線より南側は300〜400人の死者が出た。
蓮光寺の本堂、庫裏や付近の民家が全焼したのに、この山門だけが奇跡的に難を逃れたので、「生き残り門」と呼ばれて今日に至っている。 
4.城井1号掩体壕    
ウォーク開会前に立ち寄った戦跡であるが、ここはきれいに整備され、鎮魂碑や神風特攻隊として出撃して亡くなった154名の氏名、出身県を記した御影石の石碑、句歌碑などが立っている。
5.滑走路跡
現在の大幹線農道の幅は16メートルだが、当時はこの5倍の幅の80メートルのコンクリート滑走路が南北に貫いていた。この滑走路から鹿児島の航空基地に向かい、さらに沖縄へ若き神風特攻隊員154名が出撃して帰らぬ人となったのである。今は滑走路の5分の1の幅の道路の脇に記念碑と80基以上のモニュメントが建っているが、モニュメントは手を振って特攻隊を見送っている人をイメージしているという。
    
戦後になって、ツルハシやハンマーで滑走路のコンクリートを剥がし田んぼに戻し、コンクリート片は民家の塀にブロック代わりに使われているのを見ることができた。  
ウォーク途中、森山の教覚寺で休憩し、冷たいお茶の接待を受けた。この寺は冒頭の「豊の国宇佐市」の塾頭を務める住職H氏の寺院である。この寺の本堂で、このほど入手したという米軍の宇佐初空襲の映像を見ることができた。動画は2分49秒、そのうち宇佐航空隊が爆撃される部分の映像はわずか30秒。この映像は爆撃機主翼の機銃横につけた記録用ガンカメラで撮影したもので、映像解析の結果、背景に見える山の形から宇佐と特定できたそうだ。アメリカの戦略爆撃調査団の報告書の解析で、3月18日の1日で3隻の空母から計5回、グラマン戦闘機など計46機が襲来し、ロケット弾59発、12,7ミリ弾6万3135発が撃ち込まれたということがわかった。航空隊では爆弾「桜花」を積んで体当たり攻撃の準備の整っていた一式陸上攻撃機は炎上し、20機が使用不能となり、14人の死者が出た。アメリカ軍の正確な戦時記録、発達した撮影技術に驚くとともに、この貴重な映像を入手して解析した関係者に敬意を表したい。
6.中型掩体壕
   
中型とはいえ、高さ9メートル・幅40メートル・奥行23メートルもある国内最大級の掩体壕である。人間爆弾と呼ばれる「桜花」というロケットエンジン付きグライダーをつり下げて特攻に向かうための戦闘機である一式陸上攻撃機を格納していた。ここから出撃した戦闘機は防弾装備が貧弱なため、ほとんどが米軍戦闘機に撃ち落とされ、この作戦では423名が死亡。現在この掩体壕は隣の民家の個人所有で、農機具などの大きな倉庫として使われている。ここの説明ガイドさんは、八幡小学校6年生の皆さんたちだった。
7.無蓋掩体壕
  
蓋(屋根)のない掩体壕無蓋掩体壕と呼んでいる。一式陸上攻撃機を格納するためのもので、コの字型に土を掘りその中に戦闘機を入れ、その上に木の枝や草を漁網に覆って空から見えないようにカムフラージュしたものだった。47基あったが終戦とともに壊して元の畑に戻したため、原形をほぼ留めているのはここだけである。無蓋掩体壕から滑走路に移動するための誘導路は戦闘機の前輪幅と同じ6メートルで、今は中央に桜が植えられている。以上のことも調べ学習の成果として、八幡小学校6年生ガイドが説明してくれた。

きょうの宇佐航空隊平和ウォークは好天ながら強い風の中での学習ウォークであった。この広く平和で豊かな麦畑の宇佐平野の東西1,2キロ、南北1,3キロ、約183haの広さの中に、爆撃機の練習航空隊として宇佐航空隊があったのかと思うと、若干の感慨を覚える。
朝9時過ぎから午後2時過ぎまで、昼飯抜きで1本のペットボトルだけで10キロをよく歩いたものだ。途中の城井1号掩体壕と教覚寺さんでの休憩の御接待で戴いた冷たいお茶と熱いお茶、飴がおいしかった。何よりもよく調べて説明してくれた小学生ガイドの皆さんに、いろいろ勉強させて貰って感謝。そのせいかこのウォークブログは、何やら提出レポートみたいになってしまった。お世話になった方々、ありがとう。
宇佐平野んどっかに航空隊があっち、そこから若者が特攻に出てうんと死んだんち。終戦前、宇佐ん空襲でうんと死んだとこ(「とこ」は我が在では「という」の伝聞の意を表す方言)。」恥ずかしながら、大人になるまで宇佐海軍航空隊のことについてはこの程度の知識しかなかった。ところがいくらかの読書体験を通じて宇佐航空隊のことに興味を抱いた。とくに『雲の墓標(阿川弘之)』、『私兵特攻(松下竜一)』、『指揮官たちの特攻(城山三郎)』それに『沖縄戦のおもいで(親戚の故K住職)』の著書などで宇佐海軍航空隊のことをもっと知りたくなった。数年前から新聞で「豊の国宇佐市塾」が戦跡を調査し、平和ウォークを開催していることを知ってはいたが、珍しい映像発見というニュースで今回の初参加となった。古希を過ぎてやっと郷土の近現代史を学ぶというのもいささか恥ずかしい限りだが、「知るは楽しみ」なのだから今後も遊び半分でうろうろしよう。
 航空隊跡千枚田麦の秋 古希漢