Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 城下町日出を訪ねて 〜 別府史談会 秋の史跡探訪 〜

 10月23日、未明の雨に気をもんだが、別府駅西口からの出発の頃にはいい秋日和となった。今回は、1週間前に日出町万里図書館館長さんの講演で日出方面の事前学習を積んでからの参加である。
覚正寺(かくしょうじ 浄土真宗本願寺派
         
別府市に最も近い日出町豊岡(ひじまちとよおか)にある文永8(1271)年開基の古い寺院である。江戸時代には寺の所在地である頭成(かしらなり)村が豊後森藩久留島侯の飛び地となって頭成港が参勤交代の出港地になると、覚正寺が本陣となった。現本堂は文化10(1813)年に再建されたものだが、現在も庫裏に続く西側の奥に藩主の寝所と宿直侍の控えの間が残されいる。住職に初めて案内されたこれらの由緒ある各部屋はみごとな建材が使われ、襖、障子は言うに及ばず、引き手一つひとつにも贅が尽くされている。鎌倉末期の作といわれる「御本尊阿弥陀如来」をはじめ、森藩歴代殿様の位牌、九条武子詠歌日誌等々数多の寺宝が見られるのにはびっくりした。


  国宝元興寺(旧飛鳥寺)の古瓦

 帆足万里の書              大谷光瑞の書
松屋(しょうおくじ 曹洞宗
赤山西明寺という天台宗の寺であったが慶長6年、日出藩初代藩主木下延俊(のぶとし)入封の際に菩提寺とし、後に康徳山松屋命名。この山号と寺名は延俊の祖母の法名康徳山松屋妙貞大姉」にちなむ。
寺の裏の墓所には歴代藩主や親族、家臣らの墓が52基林立しているがその数、規模は壮観である。この墓群は日出町の有形文化財となっている。下の左は初代木下延俊の、右は延俊の祖母、朝日の方の墓であるが、朝日の方の墓の真ん中の石塔には確かに松屋妙貞法名が刻まれていた。
  
国道筋の松屋寺の案内看板には「日本一の大蘇鉄」とあるが、確かにどでかいこの蘇鉄は、2代藩主俊治(としはる)が府内城番交代の際、明暦3(1657)年に府内から持ち帰ったもの。持ち帰ると言ってもこの大蘇鉄、いったいどうやって運んだのか。じつは、府内城内にあった大蘇鉄を死馬と称し、1400人の人夫をもって、筵に包んで高崎山の裏を銭瓶峠越えに松屋寺に運んだというから気宇壮大な話ではある。
寺院の裏には雪舟の造園になる庭があったが、さほどの感興は湧かなかった。それより秘宝殿の絹本着色涅槃図鎌倉時代作)や延俊が秀吉より拝領した、朝鮮出兵の際に得たというといわれる虎の頭骨、また、三代俊長侯自筆の千体観音図帖十帖などの方が珍しかった。 
      
木下家墓所から西に200メートルほど上った別府湾を望む丘に、帆足万里の墓がある。安永7(1778)年、日出藩家老職の三男として生まれた万里は豊岡の脇蘭室(わきらんしつ)に少年時代を学び、成人して大阪、京都の学者に、また広瀬淡窓にも学んで物理学・天文学や医学を研究し『窮理通』『東潜夫論』『傷寒論新注』を著した。また6年間日出藩家老職を勤め、藩財政再建に力をふるった。三浦梅園、広瀬淡窓と並び豊後の三賢人と称されたことはよく知られるところである。その偉さをよく知った後の人が、彼の偉さを分けて貰うべく、墓の一部を欠いて持って帰るということがはやり、今や万里の墓は、無粋にも鉄柵で囲われてしまっている。よく見ると、墓石の左右の縁が欠けていた。欠いて持ち帰るよりせめて手で撫でるぐらいにしておけばよかったろうに。墓石を欠く暇があったら、字を書いたり読んだりした方が偉くなりそうな気がするのだが…。
      
致道館 (県指定史跡)
安政5(1858)年に、15代日出藩主木下俊程(としのり)侯の命により二の丸に建てられた藩校。8才以上の子弟に読書、習礼、漢学、後に洋学・算学・天文・医学・地理・歴史などを教えた。生徒を学力の程度によって受業生、素読生、四書生、五経生、明経生の5等級に分けたという。明治4(1871)年の廃藩まで続き、その後は、暘谷女学校、日出町役場、杵築区裁日出出張所、帆足祈念図書館と次々に役割が変わり、昭和26(1951)年、日出中学校開設にともない、二の丸の現地に修復移築された。現存する県内唯一の藩校であって県指定史跡というのに、痛みが激しく、門には倒れないようにつっかい材が施されていた。今にも倒壊しそうな門の傍に咲き競っている真っ白なシュウメイギクが哀れを誘った。 
  
日出城(暘谷城)
関ヶ原合戦の翌慶長6(1601)年、豊臣秀吉正室ねねの兄・家定(前姫路城主)の三男延俊が豊後速見郡3万石に封ぜられて日出藩を起こした。家定はもと杉原姓だったが、妹のねねが秀吉の正室(北政所高台院)になったので木下姓を許された。延俊は日出に入った翌年に日出城を完成させた。

設計は義兄に当たる中津城細川忠興が手がけ、石垣は穴生理右衛門の野面積みといわれる。本丸は別府湾を望む高台にあり、二層櫓5基、平櫓一基を配した。このうち隅櫓は本丸の東北で鬼門に当たることから、鬼門櫓 とも呼ばれ鬼門避けとして櫓の東北端の角を取っている。現在万里図書館前に移築復原中の隅櫓を見ると、鬼門部分の角が切り取られているのがよくわかる。
                  
現在の日出小学校に3代藩主俊長が鋳造させた釣り鐘があるが、1日12回この鐘を撞いて時を知らせたという。今は小学生が毎日朝8時にこの鐘を撞いているとか。
       
なお「暘谷城」の名称は俊長が中国の書にある(太陽の出てくるところ)からとったといわれている。
暘谷城址は眼下に別府湾、遙かに高崎山を望む高台にあって、春夏秋冬のいずれもすばらしいロケーションである。日出中学校や日出小学校の生徒児童たちはこの恵まれた環境のもとにあってうらやましいと思うのだが、毎日見慣れてしまうとそのすばらしさに気づかなくなっているかもしれない。24日は二十四節気の「霜降」であるがこの日は鶴見山の上には積乱雲が湧き、暑い秋の一日であった。
的山荘(日出町指定有形文化財
大正4(1915)年、杵築市山香町の馬上金山の鉱主であった成清博愛(なりきよひろえ)が別荘として建てたもので、総工費45万円(現在の7〜8億円)の豪華な日本家屋である。経営難で休業していたが、今は新しい経営者が営業している。別府湾を池に、高崎山を築山に見立てたみごとな日本庭園を擁す敷地面積は3670坪もあるという。すばらしい借景の広大な庭園を見学させて貰ったが、いつかはここの料理を味わいたいものだ。昔から城下の海中に沸く真水で育った「城下鰈」の料理は、的山荘のメイン料理として古くから皇室や文人墨客、知名士の舌を楽しませている。そういえば日出城下に「海中に眞清水湧きて魚育つ」というなんちゅうこともない高浜虚子の句碑が建っていた。
  
回天神社  日出の中心街から東へ10分ほど狭い道を行くと、深江港へ至る。文字通り深くて狭い入江が深江の大神漁港である。この港に面した小高い山に回天神社がある。
太平洋戦争末期、切羽詰まった戦局を打破すべく海軍によって考案された海の特攻隊が人間魚雷「回天」である。昭和19(1944)年に山口県徳山湾内の大津島に回天基地が設けられたのに続き、4つめの回天基地として翌20年に大神訓練基地が造られ、4月には基地内搭乗員数273名の「大神突撃隊」が開隊した。「回天」は優れた性能の九三式魚雷を改造たもので、内部に兵員一人が乗って操縦し、1550キロの爆弾とともに敵艦に体当たりして爆破するものである。昭和20(1945)年8月3日、大神基地からの唯一の出撃命令があり、大神突撃隊の隊員8名が、回天8基とともに第21特攻隊として愛媛県宿毛湾麦が浦へ向け出航、12日に出撃待機命令を受けたものの15日、出撃しないままに終戦を迎えた。
回天神社はもともと基地内に祀られていたが、敗戦後、現在の住吉神社に移され回天に関わって殉職した1073人の御霊が祀られている。社殿の前には回天の3分の1の模型と、九三式魚雷機関の実物が設置されている。
 この格納壕の奥行きは約120メートルで、1550キロの爆薬を搭載した回天8基が格納されていて、向こう側の出口から次々とこの8基が宿毛湾麦の浦港へ出航して行ったのである。
回天についてのガイドの説明を聞いていた若い女性が、「自爆するなんて、うっそー!、信じられない」という表情をしていた。ここのガイドさんは大変詳しく、資料をふんだんに使って説明してくださりよく理解できた。感謝したい。           

襟江亭  
  
三代日出藩主木下俊長が、参勤交代の帆船の風待ちや潮待ちのために建てた茶屋といわれている。現在はこの襟江亭から50メートルほど先が漁港になっているが、当時は玄関の石の下まで海が迫っていて、敷地のすぐ前が船着き場で正面門から船の乗降ができたそうだ。来客接待用としても利用され、伊能忠敬も海岸線の測量の際に立ち寄った。「襟江」とは深江港の別名で、緩やかに波打ちながら次第に狭まる形の港が、着物の襟に似ていることから名付けられたという。襟江亭は日本に現存する唯一の風待ち茶屋だそうだ。伊能忠敬が襟江亭に立ち寄ったのはいつだったのだろうか。ちなみに『伊能忠敬 測量日記』をひもとくと、120ページに次のような記述があった。

「…同九日  朝大曇天、先手後手六ツ後、杵築城下出立、…先手、坂部・梁田・上田・箱田・長蔵・真那井村、西浦川より初め、日出領大神村此村四ケ村に分る、各庄屋あり、即ち枝村なり、…枝深江湊、中食御茶屋預兼庄屋常作、同日比浦、同領川崎まで測る…」

伊能忠敬は文化7(1810)年1月22日から4月2日までかけて中津城下から国東半島の沿岸部、姫島、杵築、日出から別府、、府内、臼杵、佐伯までの第一次の豊前豊後の測量を行っている。日記によるとその間の2月9日に、深江の茶屋で中食とあるから、襟江亭で昼飯を食べたことが分かった。次の日の2月10日午後には、松屋寺の大蘇鉄を一覧したと日記に記してある。
襟江亭は現在民間人が住んでいるので、正門部分しか見学できない。


「Himagineの日記」は、その名の通り、始めた当初1年有余の間はデイリーであったが、だんだんネタ切れとなってウィークリーに、加えて怠惰な性分が追い打ちをかけてマンスリーとなってしまった。前回の更新日が9月20日だったので、今回はとうとうオーバーマンスリーである。あまり長くご無沙汰すると、「くたびれたのか?いやとうとうくたばったのか?」と愛読者(?)を心配させることもあるらしい。さーて、せいぜいウィークリーまで戻せると良いのだが…
七十路は中期高齢秋時雨  十遍捨逸句