Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 別府史談会秋期研修日帰り旅行その2

佐賀城本丸歴史館
吉野ヶ里歴史公園からバスで約20分で佐賀城に到着。通常、城を訪れるときは高くそびえる天守閣を目指すが、佐賀城には天守はない。享保11年(1726)の大火によって天守閣以下本丸建造物の大半を焼失したからだ。城の入り口のなっている現存の鯱の門・続櫓は再建時の天保9年(1838)年に本丸御殿とともに再建されたものである。
       
           鯱の門・続櫓       
       名古屋城ようなの黄金の鯱ではなく、青銅製のようだ 
佐賀城は佐賀市の中央に位置する平城である。もともと龍造寺氏の居城だったがのちに家臣の鍋島氏が支配し、江戸時代に 鍋島直茂 が初代藩主となった。二代藩主鍋島勝茂の時に城が完成し、本丸に入った。その後も焼失と再建を繰り返したが、明治7年(1874)、江藤新平を中心とした佐賀の乱の時に反乱軍に占拠され城の大半を失ったが本丸と鯱の門は焼失を免れた。三橋三智也の「古城」に「♪矢玉の痕のここかしこ〜」とあるように、鯱の門にはこの佐賀の乱の時の銃弾痕が生々しく残っている。
       
   天守  天守閣は享保11年に焼失して以来、再建されていない
ここ佐賀城本丸歴史館の特徴は入場料無料ということと、7年前に再建された本丸の中をボランティアガイドの丁寧な説明で見学できるということだ。
       
外御書院の北廊下 なんと49メートルと、江戸城松の廊下より長い
       
外御書院 一之間、二之、三之間、四之間を合わせると、320畳の大広間に。本丸完成披露の時にはこの場所に千人の家臣が集まったという。
       
御座間 藩主鍋島直正の居室の外側であ、万事質素を旨とする代々藩主は、建材に檜や松をあまり使わず杉を使用している。家臣の居室は引き戸障子が1枚しかない(通常は2枚)のが普通であった。
       
佐賀藩は幕府から長崎警護を命ぜられていたので、古くから外国に目を向け、オランダ医学をいち早く導入した。種痘の医術も佐賀から始まった。
       
平成18年(2006)4月、佐賀城は日本名城百選に選定されたが、広い畳の間の空間や長い廊下を誇るものの絢爛豪華な装飾もない至って質素な城である。その名城たる由縁を、学術的な内容なのにやさしくユーモアたっぷりに説明してくれたボランティアガイドのSさんに感謝である。
帰りのバスの中では、美声の女性会員のリードで「もみじ」や「里の秋」などの唱歌を歌って、さながら音楽科の時間となった。
       
日が西に傾いて、十文字高原あたりは芒が銀色に波打ち、つるべ落としの秋の陽が高崎山に暮れ残っていた。
御書院の畳の多し暮れの秋  古希漢