別府史談会秋期研修日帰り旅行その1
放射冷却による朝の冷気が目を覚まさせてくれた11月4日、別府駅西口でバスを待った。近くには大阪万博のシンボルタワーの作者である岡本太郎画伯の作品がそびえている。
史談会35人乗りのバスは高速に乗って一路佐賀へ。高原の風景はもう秋の装いである。
今朝は冷え込んだので、バスの中から湯布院の町は底霧の下に見えた。
今日の研修目的地は吉野ヶ里歴史公園と佐賀城である。
吉野ヶ里歴史公園
別府から1時間50分で吉野ヶ里到着。敷地面積54haという広さの公園は入り口も広い。以前来たのは夫婦の個人旅行だったのでガイドブック片手に通り一遍の見学だったが、今回は要所要所では詳しいガイドに説明と案内を頼んでいる。
この遺跡公園は福岡県境の背振山脈南麓の丘陵地帯であるが、海と山に挟まれた狭い別府市に住む人間にとっては佐賀平野の広々としたスペースが気持ちよい。弥生時代の環濠集落 としては日本一の規模のこの遺跡であるが、1970年代に農地や果樹園造成に伴ってたくさんの甕棺などの遺跡が発見されるようになり、さらに80年代の工業団地開発計画の際に佐賀県が発掘調査の事前調査を始めた。その後の本調査で予想以上の広い範囲に遺跡があることが判明するや、県は工業団地縮小を決めた。90年代に入って国の特別史跡に指定され、国営歴史公園として整備された。遺跡の特徴の第一は、総延長2,5キロメートルの環濠に囲まれたムラの内外に木柵や逆茂木(さかもぎ)などで敵の侵入を防ぐ防御機構の遺構ということである。現在は発掘調査が完了したところから順に、学術的にできるだけ弥生時代のままの復元を行っている。環濠は外濠と内濠があり、内濠の中に王や支配者が居住していた南内郭 と、まつりごとを行う北内郭 がある。
南内郭の物見櫓と住居
物見櫓から南を見はるかすと、60キロメートルほど先の雲仙普賢岳を時折かすかに望むことができたが、写真には写らなかった。
裁定を取り仕切る「大人(たいじん)」の家について、ボランティアガイドの説明を聞く。真ん中の大男は「大人」ではなく、史談会会員のひとり(190センチぐらいか)である。
北内郭にある主祭殿 支配者たちが重大なまつりごとの話をしたり、儀式や占いをする所で高床式の構造である。
会議の模様がわかりやすく復元されている。
稲藁を保管する倉庫は湿気予防のために、高床式でつくってある。
北墳丘墓は歴代の王が甕棺に埋葬されている。甕が皆大きいのは、王が渡来人だったということかもしれない。
南外郭にある倉庫群。栗の木でつくったような多くの逆茂木(さかもぎ)が外敵の侵入を防ぐ。
弥生時代は600年〜700年続いたが、現在復元されているような内外の環濠に囲まれた巨大空間、祭殿や物見櫓などの大型建造物は弥生時代後期(紀元1世紀〜3世紀)に完成したものと思われる。
貰ったパンフレットに弥生人の声が聞こえる
とあったが、このヤフードームがいくつもはいりそうな丘陵の空間の中に立っていると、弥生人の声が今にも聞こえてきそうな錯覚に襲われるのだった。
秋高しガイドになりし弥生人(やよいびと) 古希漢