『「聖嶽」事件』(「聖嶽」名誉毀損訴訟弁護団 編)
2000年11月5日、毎日新聞が旧石器捏造事件をスクープした。民間の考古学研究団体の「東北旧石器文化研究所」の副理事長である藤村新一氏がこれまで発掘してきた日本の前・中期旧石器時代の遺物が、すべて捏造だったという事件である。新聞紙面にトップニュースで取り上げられただけでなく、テレビでは、藤村氏が遺跡に石器を「神の手」で埋めている動かぬ証拠を映したビデオが流され、大変な衝撃を受けたものだ。この事件は日本の考古学界最大のスキャンダルとして世間の耳目をあつめた。
そしてその2ヶ月後の2001年1月18日発売の週刊文春に「第二の神の手」という大見出しで、40年前に別府大学の賀川光夫氏が手がけた大分県の聖嶽(ひじりだき)遺跡が、東北の遺跡捏造事件と同じような捏造遺跡であるかのように報道された。当時その記事を読み、「そんな馬鹿な」「まさか」と思う一方で、心中は「?!?!」で何ともいえぬ衝撃、不安、戸惑いの気分に覆われたのを覚えている。
さらに2001年1月25日発行の週刊文春には「大分『聖嶽人』はやはり捏造である」という大見出しが躍った。これに対し賀川名誉教授は週刊文春の編集部長宛に「…貴社「週刊文春」の記者の取材を受け、不愉快な記事を二度にわたり掲載され、戦後55年の長くまじめな学究生活と、楽しみにしていた余生をだいなしにされました。この辱めは忘れません…」と抗議文を送ったが、抗議文は黙殺されてしまった。本来なら報道対象となった者から抗議があった場合、報道側は抗議を真摯に受け止めて返答し、より慎重に取材し、正確な記事作成に当たるというのがメディアのルールであるが、文春側はこれを怠った。
2月18日、賀川名誉教授の呼びかけで、九州の考古学の専門家が一堂に会して、聖嶽遺跡出土の石器を肉眼で観察し検討する会がもたれた。この結果石器は後期旧石器時代から縄文時代後期もしくは晩期初頭の石器が混在すること、石器の時期は少なくとも三時期に属する資料である、石器材料の黒曜石は佐賀県伊万里市腰岳と長崎県星鹿半島産の二種であり、縄文時代のものは前者を、旧石器時代のものは後者をおもに使用している、という結論に至った。これを受けて、3月6日に別府大学で記者会見が開かれ、聖嶽石器検討委員会の座長が質疑応答の場で、40年前の発掘段階の遺物に対する見解と今日の考古学研究のレベルで新しく確認できた点などを比較して説明するなど、聖嶽問題をマスコミによるスキャンダラスな視点から学問的ルートに戻すことに努めた。この記者会見の最後に、賀川名誉教授は記者たちを見回して、次のように述べた。
1.石器の形態に統一性がないことは発掘当初から疑問に思い、報告書でも指摘していた。
2.40年前の調査を新たに現代の目で見直していただいたことを歓迎する。
3.常に新たな目で検証し直すことが学問だと思っている。新たに石器の一部が縄文時代のものと判明したことは、学問の進歩で 喜ばしいことである。
4.間違いは許されるが作り話は許されない。
5.今回(聖嶽遺跡が)捏造事件と言われたことは、本当に悔しい。
週刊文春の記者は当日別府大学に来ていたようだが、この賀川名誉教授の会見にはなぜか出席していない。
3月8日、週刊文春の3月15日号が発売された。
その見出しは「『聖嶽』洞穴遺跡は別の四遺跡から集められていた」という衝撃的なものであった。この記事の中には、別府大学関係者(匿名)の証言として「聖嶽遺跡の発掘が始まる前、発掘に参加した人物の研究室を訪ねたときに、彼は引き出しから石器を取り出してこの細石刃は福井洞穴のやつだと自慢げに言って私の手のひらに乗せてくれた」とある。聖嶽遺跡の発掘が始まる前に発掘に参加した人物で、別府大学に研究室を持っていた人物は賀川名誉教授しかいない。この記事は明らかに、名指しはしていなくても、福井洞穴から発掘した石器を聖嶽遺跡発掘前に賀川名誉教授が埋め込み、それを聖嶽遺跡から出土したように装うことによって、遺跡を捏造したというふうに一般読者に想像させるものであった。この3回目の週刊文春記事に賀川名誉教授は「これは酷いなあ」と沈痛な様子でつぶやいた。3回にわたる名誉毀損記事により名誉を大きく傷つけられてしまった。抗議文にはなしのつぶて、当事者への追加取材もなく、記者会見も無視され、巨大なマスコミのペンの暴力によって社会的に葬り去られて無力感にうちひしがれた賀川名誉教授であった。
抗議の自死
3月9日午後10時10分、賀川名誉教授は自宅の書斎で自ら命を絶った。長男次男宛、妻宛、学会学友市民宛の3通の遺書が残されていた。
いずれも、週刊文春の悪質な讒言と報道による辱めを受けた死の抗議であるとしたためられていた。これに対して、週刊文春は3月22日号で次のような記事を載せた。
「決して“神の手”を、聖嶽洞穴発掘調査団の団員や賀川氏個人だと決めつけるどころか、その疑念に触れたこともない」そのうえ賀川名誉教授から文春への抗議がなかったように記載し、さらに、「学者であられるなら、学問的業績への疑惑の指摘には、学術的に反論していただきたかった」とまで記載していた。この記事は死者を鞭打ち、遺族の心情を逆なでするものであった。
遺族は文藝春秋社に協議を申し入れた。週刊文春の3回にわたる報道内容と3月22日号の弁明記事について質問のためである。この中で捏造と「断定」した根拠は何かの問いに「断定はしていない。権威も追認という、権威の言葉の引用であり文春が断定したのではない」などと詭弁に終始した。遺族側は、この協議で名誉毀損に至った週刊文春の報道について文春側が謝罪したならばそれでよしというつもりであったが、謝罪は一切なく、事態打開の方法は裁判闘争しかないと判断するに至った。
名誉毀損で提訴 30人の大弁護団結成
★第一審大分地裁(2001・12・25〜2003・5・15)
原告(遺族)の提訴内容 : 謝罪広告3回と慰謝料5500万円請求
判決 : 謝罪広告と慰謝料660万円
一審の裁判を通じて被告の文春側は終始一貫して自らの正当性を主張し、報道姿勢について一切反省しなかったことを受けて原告は控訴を決定。被告文春側もこの判決に不服を申し立てて控訴。
★第二審控訴審福岡高裁(2003・9・29〜2004・2・23)
判決 : 謝罪広告と慰謝料920万円
裁判所は、文春記事がずさんな取材と薄弱な根拠で聖嶽遺跡を捏造と断定し、賀川元教授が捏造に関与したとの印象を与えたことは明らかである、と被告を断罪した。被告側はこの判決を不服とし、最高裁に上告した。
★第三審上告審最高裁(2004・4・27〜2004・7・15)
判決 : 上告棄却
本書206ページの写真(大分合同新聞平成2004/7/15夕刊)
上記判決を受けて、週刊文春は2004年9月2日号に以下の謝罪広告を掲載した。
故賀川光夫別府大学名誉教授に対する謝罪文
週刊文春2001年1月25日号、同年2月1日号、同年3月15日号において昭和30年代に大分県聖嶽洞穴遺跡から採取された石器が捏造であり、同遺跡発掘調査の責任者であった賀川光夫別府大学名誉教授があたかもその捏造に関与した疑いがあると受け取られる一連の記事を掲載しましたが、これらの記事のうち、石器が捏造であることおよび同教授がこの捏造に関与したことは事実ではありませんでした。
この記事により、故賀川光夫別府大学名誉教授の名誉を傷つけ、ご迷惑をおかけしたことをお詫びします。
株式会社文藝春秋 代表者代表取締役 上野 徹 週刊文春前編集長 木俣正剛 取材記者 河崎貴一
賀川トシ子様 賀川 洋様 賀川 真様
これで遺族、裁判支援団体は、賀川名誉教授の名誉回復の裁判に勝訴して一件落着となった。ところが、週刊文春は同じ号で「最高裁『謝罪広告命令』先進国では日本だけ」という記事を掲載しているのである。一般的には何人にも裁判批判は自由である。しかし、謝罪広告を載せて反省したかのように見せて、その号で判決批判記事を掲載するというこの出版社の態度はどうか。判決には一応従うが、遺族への真の謝罪の気持ちはないんだという本音が見え見えである。
本の副題に 報道被害と考古学論争 とある。あらゆる学問に研究者の中で論争があるのは当然であり、研究や論争を通じて学問の進歩もある。こと考古学の分野で今どのような論争があるのかは不明にして知らないが、「報道被害」というのは以前から関心を持っている。それは日本国憲法がすべての国民に保障する基本的人権の中の、自由権にかかわる問題だからである。かつて表現の自由の名の下に、人権を踏みにじる記事や報道がなされることが幾度となく繰り返されている。名誉を傷つけられた弱い被害者がそのために社会的に葬られようとも、提訴する経済的ゆとりのない者は泣き寝入りするしかないのがほとんどである。裁判になっても、大きな経済力を持っているマスメディアの場合は敗訴の際の経済的リスクを負っても、センセーショナルな興味本意の記事で読者をつかんで商業的ベースに載ればいいのだという姿勢がある。今回の場合もこのケースに当てはまるのではないか。特に今回のような学術的テーマについて報道する場合は、報道する側はテーマに関わる基本的な文献を収集して十分に読み込み、対象者や関係者、対象者の反対の理論を持つ者を含めて徹底した裏付け取材をしなければならないのが記者のモラルのイロハと思う。この本の中では、審理における原告弁護団と被告の記者との質疑応答の部分が、法廷の臨場感が見えるクライマックスである。原告側弁護士の的確な質問によって、被告の記者の取材がいかに杜撰であったかが次々に暴かれていく。被告の死者への尊厳を欠いた不実な答弁に、遺族や傍聴の支援者たちは満腔の怒りを通り越し、あきれ、無力感に陥るのである。
賀川名誉教授については、昔、一度だけ考古学のシンポジウムでお話を聞かせて貰ったことがあるのみである。この本の最後に、教え子や支援会の各団体の代表者による座談会の模様が書かれているが、誰もが名誉教授の温厚な人柄と学者としての謙虚さ、厳格さを異口同音に語っている。賀川名誉教授は文春記事による辱めとその後の心労で自死の道を選んだのだが、ご冥福を祈りつつも、やはり生きて名誉回復のために闘って欲しかった。
文春記事の一般読者の一人にすぎない自分は、3回の報道で、まさかと思いつつ、ひょっとしたらという思いも離れずにいたが、この名誉毀損訴訟弁護団の著書によって、我が身に住み着いていたもやもやをすっかり払拭することができた。
この事件、東北旧石器捏造事件の毎日新聞の一大スクープよりわずか2ヶ月後の聖嶽遺跡「第二の神の手」報道は、柳の下のドジョウを狙ったスクープを焦った文春の悪質な誤報だったとしか私には思えない。
報道被害は、名誉毀損という人権侵害をもたらすと同時に、時には人権擁護という名の下に、公権力がメディアに介入する可能性をたらすこともありうる。これら両面の危険性を避けるには、報道する側の正常な人権感覚に基づいたモラルある取材態度しかないのではないだろうか。一読後、外部に対して「書く」「喋る」「伝える」という表現活動をする場合に、精確な調査と入念な取材がいかに大切であるかを再認識させてくれた。このことは、私的なブロガーである自分への自戒でもある。
この本は先の句会で、「この本興味ある?」といってKさんが貸してくれたものである。聖嶽事件について、もやもやしたものを持ち続けたままに10年後の今は忘れてしまっている方がいたら、お勧めの本だ。