Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 伊能忠敬

先日のブログ「六尺の日記」の中の伊能忠敬の記事に触発されて、彼が別府を測量したときの測量史蹟があったのを思い出し、雨上がりの流川通りを歩いてみた。

流川丸食第3駐車場横の交差点の端に「伊能忠敬測量史蹟」が建っているが、平成9年に「流川通り会」によっ建立されたとある。
立派な御影石の碑面には次のように刻まれている。
「往時この街角に高札場あり徳川幕府禁制を掲ぐ 文化七年(二月十一日)伊能忠敬来りて測量をなしこの処に国道元標を建つ 江戸日本橋より二百六十三里(1052KM) この元標より西一丁目に庄屋宅ありと」
伊能忠敬はいつ頃、どこを経て別府に至り、別府測量のあとどこへ行ったのだろうか。書棚を探してみたら、『伊能忠敬測量日記』が出てきた。外箱の背は書棚のガラス戸越しに日焼けしている。奥付を見ると、発行所 中津市山下町 九州ふるさと文献刊行会(代表 今永正樹)、昭和51年11月20日発行 定価4,300円とある。ずいぶん昔中津にいた頃、伊能忠敬が中津をいつ、どういうルートで測量したのか知りたかったので買ったものだったが、それ以来のご無沙汰本である。
同書の略年譜を見ると、忠敬は文化7年(1810)66歳の時、正月12日に小倉城下の測量を開始、門司の沿岸を巡り曽根、苅田、行橋、八屋と豊前海沿岸を測り、22日に中津城下着、大分県下の測量にはいった。宇佐、国東半島を巡り、杵築、日出の城下、別府、府内城下、佐賀関、臼杵城下、津久見を経て、3月7日佐伯城下着。それより豊後灘沿岸(リアス式海岸)及び島々を測量、4月2日佐伯領蒲江浦より日向延岡領に入り、宮崎県下の測量とつなげている。
これによると、大分県下の測量は1月22日から4月1日までかかったということになる(このあとも大分県下の測量を二次、三次、四次と続ける)。現行歴では約一と月遅れになるが、厳寒期から初夏の頃までを正確な長さの歩幅をキープして歩くのだから、どこかのシンガリーズウォーカーとは、仏壇と踏み段ほどのダン違いである。
さて、我が町別府の測量日記である。

二月十一日
朝曇ほどなく快晴、先後手共、六つ前、日出城下出立、後手、我ら・青木・梁田・長蔵、別手、昨日打留、森領辻間村枝頭成町より初め、嶋原御領御料所小浦村・同小坂村・同古市村・亀川村・同平田村まで測る、中食亀川村庄屋与惣兵衛、頭成町より一里一十0丁五十六間三尺

測量隊は先手、後手、別手の三グループに分かれて行ったようで、それぞれのメンバー名を書き出している。「六つ」は卯の刻、午前六時である。二月(今の三月)の朝六時のまだ明けやらぬ時に出発である。辻間。頭成(かしらなり=今の豊岡)は森藩久留島公の飛び地であった。頭成港は森藩の参勤交代の際の港で、小浦港と共に明礬や七島藺などの特産品の積出港としても重要な港であった。

先手坂部・下川辺・永井・上田・平助平田村より初め、嶋原御領所御料所北石垣村・同中石垣村・同南石垣村、北石垣村に鬼が窟と云もの二ヶ所あり石郭にて大なり

「鬼が窟」は現在の上人小学校の敷地内にある一号墳、道を挟んだ向かいにある二号墳ともに、国指定史跡「鬼の岩屋古墳」である。

別府村(同上御料)字北浜、中浜、南浜まで測る、また浜脇村田野口村両村入会字向浜まで越測、平田村より向浜まで一里廿九丁一十一間、別府村北浜より制札まで打上げ、二丁三十一間二尺、辻間村頭成町より別府村まで海辺三里0四丁0七間三尺、

御料」とは江戸時代は幕府の直轄領、つまり天領である。天領といえば日田とだけ別府の住人も思いやすいが、別府のかなりの範囲が天領であった。
上の日記文の「制札」が幕府の制令を記した札を掲げる高札場。冒頭の写真の場所で、ここに忠敬の測量の標柱が建てられた。
別府測量を一日で終えた忠敬一行は、次の十二日の早朝浜脇から四極山(しはつ山=高崎山)の麓を通り白木・田ノ浦から生石をぬけ、府内城下に入り測量を続けたのである。
TVドラマ「4000万歩の男」でも見たように、伊能忠敬測量隊が海岸線を歩く風景が多かったが、日本地図を描こうとすれば島国の日本の海岸線を歩いて距離を測ることは必然である。それはまた、代わりの道を選べない冒険もしなければならない。日出から大分まででいうならば、小浦から我が町名の関の江に抜ける経路であろう。胡麻が坂の海側は険しい崖道で貝原益軒は元禄七年に『豊国紀行』に

頭成より里屋(亀川)まで一里有り、この間坂多し、石多くして往来の便わるし

と書いている。一行は多分この道を通らず、干潮の時に崖下の海岸線を歩いたに違いない。岩がごろごろしてはいるが、干潮ならば歩ける。(明日は大潮の干潮でかなり干上がるから、ここの磯浜にニーナを採りに行くのだ(^^)/ひょっとしたら忠敬ご一行に会えるかも(○_○))もう一ヶ所は、高崎山下の海岸線である。鳴川から白木、田ノ浦に海岸線を抜けることは命がけではなかったろうか。古川古松軒の『西遊雑記

別府より府内に行く浜道はいたって険阻の道にて西の方は大山峙ち、東は大海にて狭く一筋道にて、向こうより来る者あれば、一町も二町も此方より声をかけて互いに待ちあいて、少し広き所にてゆき違う事にて、誠に命がけにて通行する所なり。

赤松から銭瓶峠を経て高崎山の裏側を通り、生石、府内へと通ず道もあったが、当時の府内への道は浜脇から海路を利用するのが専らであった。高崎山下の難所についての記述は日記には全く見えず、土地の人に聞いた柞原八幡の祭りや浜の市の賑わいのことなどを書いている。これまでに十年も歩いて測量してきたのだから、少々の難所のことなど記すに値しなかったのかもしれない。
(注)一里=約四キロメートル
   一丁=約百十メートル
   一間=約一.八メートル
   一尺=約三十センチ
明後日の深耶馬新緑ウォーキング、アラ古希は膝の関節をコキコキいわせてしんがりをつとめよう。