Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 樅の木は残った、が…

4月29日は第回23回深耶馬渓ゴールンウォーク、我が男声合唱団豊声会のウォーキング同好者の参加が恒例となり、今年もみどり滴る麗谷コースもみじ谷コースを6人の仲間と楽しんだ。
       
終了後、もみじの湯に浸かって汗を流すというのも定番となった。
明くる4月30日は父の祥月命日なので、深耶馬渓からそのまま山国町の実家に帰って泊まり、仏参するのが習わしである。
最近実家のすぐ上から堤(つつみ)という集落まで道路が通じたので、深耶馬渓ウォークの距離が少し物足りなかったこともあり、この新道を歩いてみた。工期が30日までという看板があってまだ車は通れないが、黒々とアスファルト舗装も完成している。
   
 この新道の公式名称は知らないが、勝手に「堤路(つつみぢ)」と呼ぼう。藤村の『夜明け前』の書き出し「木曽路はすべて山の中である」ではないが、“堤路はすべて山の中である”。昔、母校の三郷(みさと)小学校の児童だった頃、遠足の目的地は堤分校だった。「そうだ、堤分校に行ってみよう!」小学生の頃の懐旧の情やるかたなく、石のごろごろした急坂の旧道ではなく、できたてホヤホヤのゆるやかな上り坂の新道をひたすら堤分校を目指す。半分ほど歩くと、右手からの旧道が合流しているところにやってきた。 
   
30分以上歩いた頃、新道のアスファルトが切れ、昔はなかったがすでに反対側から作られている路面のかなり痛んだコンクリート道へつながった。ここらから左側の山手斜面に、いくつもの獣道を見ることになる。山からこの道の反対側の竹林に竹の子掘りに来たイノシシやシカが通る道らしい。遠足で通った道はこの先サッパリ分からないが、チェンソーの音に近づき、クヌギの木を切っていた男の人から「道なりに行き、トンネルの手前を池沿いを右手に約500メートルぐらいのところが堤分校跡地だ」と教わった。たしかに天城越えのようなトンネルを左手に見るところに堤分校跡地利用ボランティア協議会が建てた立派な案内看板があった。「ほう、もう分校校舎はなくなり、きれいな花木園になっているのか。」
   
蒼く鎮まった池には無数の真っ黒なオタマジャクシが蠢いていた。なつかしい風景だ。暫く歩を進め、やっと分校跡地らしいところに着いたがそれらしき案内板はなく、高い石碑とその前に大樹が二本ならんでいて、校舎跡地らしい平地は草ぼうぼうである。運動場であったと思しき部分の一角に椎茸の榾木が黒いビニールをかぶって摘まれていた。遠足の時に、分校の3年生までの子どもたちと陣取り遊びをしたことぐらいしか覚えていないが、ここに学校があったとはとても思えない。昔日の面影まったくない。跡地の真ん中あたりに佇んでいると、侘びしく、寂しくなって鼻の奥がツンとした。そして「万葉香る花樹の庭」とあったが、それらしき花も樹も全く見あたらないではないか。これでは看板に偽りありだ。
大きな石碑は、荒川先生顕彰碑  とあり、18年間にわたって厳しい環境のもと地域の子どもたちの教育ひとすじに挺身し、地域の発展に尽くして昭和5年に退職されたいう説明も刻まれていた。顕彰碑の前の大樹に両手を廻してみたが、樹幹の周囲が3メートルはあろうかという樅の木二本である。木の根本に転がっていた標柱を見ると、荒川先生の退職記念として植えられたことがわかった。
   
 
標柱の表に 記念樹 樅二本 昭和五年七月、裏に、二年 後藤 宗  仝 郄倉敬二 一年 梶原 操 仝 梶原三郎と刻名されている。昭和5年に2年生と1年生であった4人の尋常小学生はもう御存命ではないかもしれない。自分が遠足に行った頃は記念樹の植樹から20年ぐらいあとだったことになるから、この樅の木もかなり大きくなっていただろうに、樅の木の記憶が全くないのはどうしたことだろうか。荒川先生の退職は生まれる10年も前だから全く知るよしもないが、植えられた昭和5年から以降の昭和55年廃校までの分校の姿やその後の今日までの消長をつぶさに見てきた二本の樅の木は、こうして今も残っているのだが、自分が見ているはずの樅の木の記憶が皆無なのが何とも歯がゆいのだ。かつて河野宅太郎という先生がずっと堤分校に勤めておられたが、山芋堀の名人ということを聞いていた。廃校まで分校におられたのだろうか。
やるせないような一抹の寂寥感を胸にして帰る道で、来るときに見た何軒もの廃屋や空き家を再び目にして、時代の移り変わりの切なさに胸が痛んだ。
 
 
牛のいない畜舎、動かし手のないトラクター、イノシシやシカからの防護柵の向こうの畦道に並ぶ廃車の列を見て、過疎、限界集落という言葉か浮かび侘びしく複雑な気持ちになる。
         
という自分に何ができるか、何もできない通りすがりの無責任な傍観者の一人でしかないのだが。
それにしても、山奥に立派な幅広の舗装道路があちこちできてつながっているが、子どもや働き手が多かった昔は不便な狭い道しかなく、過疎となった今頃になって大きな道路が山の中までできるが、モータリゼーションの時代の流れとはいえ、矛盾を感じてしまう。
次の30日、母の33回忌、父の17回忌の法要の前に、サイクリングロードを歩いて山国町の図書館に堤分校の沿革などを調べに行った。あいにくの閉館だったので教育委員会中津市に合併以降、教育センターという)を訪れ資料提供を願ったら、初対面の怪しげなジーさんにもかかわらず気持ちよく応対され、地元の職員さんに資料のコピーを戴き、親切にいろいろ説明までしてくれた。帰ろうとして呼び止められたが、呼び止めた主は高校の時の教え子のS君だった。貰った名詞には「教育センター長」とあリ、コーヒーまで戴いてしまった。
さて、法要である。檀那寺は浄土真宗本願寺派の円昭寺である。現住職の長男の若院さんはまだ20代であるが、読経の声は見事なバリトンで、読経も話しもなかなかのものである。今日は三部経をあげて貰ったが、1時間半の読経の声は最後までいささかも衰えない。惚れ惚れとするバリトンは住職である父親譲りである。最後の仏説阿弥陀経はへたくそながらご経本に頼りつつ唱和させて貰ったが、亡き父母の耳にはどのように聞こえただろうか。父の祥月命日は毎年座敷の前の庭に、シャクナゲツツジ、ヤマブキなどの花々が美しい。
バリトン無量寿経や白躑躅
山国町の若い職員や、若い僧侶たちにふるさとの明日を託したい。
5月23日(日)の中津メールハーモニーの30周年記念演奏会で歌う曲目の一つに「ふるさと」がある。「兎追いし〜」ではなく室生犀星作詩の「ふるさとは遠きににありて思ふもの」の方である。山国町はまぎれもなく私のふるさとである。別府から70キロ、1時間30分であるが、ほどよい遠さ、適当な近さであり、春秋のお彼岸や父母、甥の祥月命日に仏参できるのはいいもんだ。 
こじゅけいの番い横切る散歩道