Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 大地震・巨大津波

 有史以来未曾有の巨大地震マグニチュード9.0)は経験したことのない巨大津波を伴い、東北関東地方の太平洋側沿岸部を破壊しつくした。住む家を失った被災者の避難所はいずこも満杯状態な上に、福島第一原発事故による放射性物質漏れの危険から、近隣住民も20キロ上離れた場所に避難を余儀なくされている。犠牲者と行方不明者の数は5桁に達している。被災地被災者に対して国民一人びとりができることから始めようと動きが、燎原の火の如く広がり始め、外国の援助活動も具体的に動き始めた。外国のメディアでは、暴動も略奪もなく、物資の受け取りに秩序を乱さずに辛抱強く並んでいる情景に驚き、そのような日本人の資質を賞賛している。ライフラインが断たれ、被災者に緊急な物資がなかなか届かないという状況も徐々にではあるが改善されつつある。被災者のかたがたも励まし合ってあきらめずに待って欲しい。地域差はあっても、必ず点は線でつながり、線は面となっていく。
 今度の地震の大きさを“想定外”であったと誰もが認識したが、この想定外が原子力発電の安全神話をもろくも覆した。福島原発はたしかマグニチュード8.4の地震を想定し、それに耐えるように設計建設されていたのではなかったか。これを上回る規模だから想定外の結果の事故というのだろうが、そもそも地震国日本の国土の上に危険な放射性物質を使用しなければならない原子力発電が本当に安全で必要不可欠な選択なのか、という基本論議に戻らざるを得まい。大分県に近い山口県の上関原発の着工はしばらく中断ということになろうか。

さて、国民誰もが自分が住んでいるところは大丈夫かと思い、昔はどうだったか、将来はどうかと心配になるものだ。自分の住む別府湾岸を襲った地震津波の歴史を『別府市誌』(1985年版)などで調べてみた。
別府湾岸を襲った大津波
慶長元年(1596)…415年前
推定マグニチュード(以下M)7.0(2003年版『理科年表』「日本付近のおもな被害地震年代表」)

慶長元年ひのえ申四月上旬、前日に大地震、翌日中に存掛(ぞんじか)けなく津波、惣(すべ)て大分、速見、国東、海辺海中と成る(『伝承辻間村分り之覚』)

これは「伝承」とあるとおり、慶長元年の地震より150年後に人々の言い伝えとして書き残されたものである。これに続けて、頭成(今の豊岡)から古市までの海岸の崖を津波が押し崩したので、古代からあった頭成から小坂の海辺を通り、関の江の冷川口に至る浜道はつぶれてしまった。また、慶長以前は海辺にあったという寺伝をもつ海門地震後、小坂の山の手に再建されたという。
この海門寺は今でもあると市誌に書いてあるので、3月22日午後別府湾ロイヤルホテルの前の道を山に向かって歩いて探した。地図では日出町大字平道という集落で、1キロ足らずの坂道を上り詰めたところの畑仕事をしている人に聞くと、「その上にあるが、誰もおらんよ」という。たどり着いたところには 山門も山号や寺号もない普通の民家のようなトタン葺きのほとんど廃屋らしきものである。ガラス戸越しに中を見ると単に無住寺ではなく、久しく人が生活していないような荒れようであった。すでに廃寺となっているらしい。
         
         
狭い境内の中に古びた鐘楼があるので、辛うじて寺院と認められた。鐘楼には「寶林山 海門寺」とあった。慶長元年寺院もろとも鐘も津波に流されたのであろうがその後のいつごろ鐘が造られたのかと見てみると、「昭和49年再鋳」とあるので、津波で流されたあと370年以上も鐘はなかったのかあるいは戦時に供出させられた以降、昭和49年に寄進により鋳造されたのだろうか。
この海門寺と、別府市北浜にある海門寺の関係は全くわからないが、現在の北浜にある海門寺は当時は久光島にあり、山号久光山といい、慶長2年の地震と洪水によって久光島もろとも海に没した。慶長元年の地震では、別府湾にあった瓜生島(うりゅうじま)が一瞬のうちに海に沈み、708人の死者が出たと伝えられる。この津波の前に高崎山が崩れ、柞原八幡宮の拝殿が倒壊したという。この地震の直後に近畿地方に大地震が起こり、豊臣秀吉のいた伏見城は石垣もろとも倒壊した。
寛政11年(1799)11月…212年前
11月24日、鶴見山が突然鳴動、それに伴って昼夜に15,6回の地震が7日間続いた。翌年の6月6日、山犬が3匹境川の河原の奥から谷伝いに里に下りてきてこれが凶兆であったのか、山犬が山に帰ったあと大雨が降って石垣と弦美村の4か所に落雷があった。この大雨が山汐(山津波)となって約2時間、南石垣村と中石が木村の村人達は逃げまどった、という記録がある。(『家宝珍事記』)
安政元年(1854)11月…157年前
世にいう「安政の大地震」は安政2年10月2日(1855年11月11日)の夜、八丈島震源とする推定M6.9の地震で火災によって約4000人の死者を出した震災をいうが、地震の規模では前年の三連地震の方が巨大であった。  
安政元年11月4日 M8.4 震源遠州灘(愛知・静岡の南) 『安政東海大地震
安政元年11月5日 M8.4 震源=潮岬沖(和歌山・徳島の南)『安政南海大地震
安政元年11月7日 M7.4 震源豊予海峡(大分と愛媛の間)

このときの別府の地震の様子は荒金義八郎の日誌『諸用留』にくわしい。

・11月4日より折々地震、5日大地震、村人中朝見・浜脇の上に逃げる。
・当所(義八郎宅)内証(居間)両二階柱折れ、其外本宅蔵など皆々ゆがみ、壁落ち瓦落ち、惣右衛門方柱のこらず折れ、木兵衛方座敷の上崩れ大黒柱折る。 義八郎方段々損柹、窓戸袋町に飛ぶ、塀は残らずかやり…当所けが人なし。

また安部辰治翁が残した『現聞日誌』によれば、

・冬11月6,7日激震は、川水井水をゆり上げ、立歩行できぬ事ありたりと云。其際藤内家倒れ、主佐助氏敷かれ即死…激震続き、我一同宮寺久土山竹林の仮 小屋に入る。小地震ゆり続き、正月に止む。

また『温故知新禄』によれば、

…亀川平田両村無残、津波相畏れ山上に相移り住む、…高松御役所厳寒破損、当国慶長以来未曾有也

とある。

古い文書や記録から伺えることは、巨大地震は初発の地震から余震が何日も続くということ、一か所に限らず連動して広範囲に起こっているということである。それが大地震の特徴である。まさしく今回の大地震も東北から関東にかけて500キロの海岸線にかけて破壊し、未だに余震が続いている。
大分県地震被害想定調査検討委員会が県内と周辺の地震環境を調査して分析し、08年5月に公表している。それによると、

別府は活断層震源とするM6.7程度の地震が30年以内に2〜4パーセントの確率で起こり、冬に発生すれば県内の死者2,555人、全壊・消失家屋63,913棟

また、

東南海・南海地震はM8.1〜8.4の規模で、今後30年以内に60〜70パーセントの確率で起きる

と想定している(以上、朝日新聞2011/3/21)。
11日の東日本大震災による津波で、午後4時8分に津波警報が出され、大分市佐伯市津久見市臼杵市20万人以上に避難勧告を発令。ところが事後の取材で、実際に避難したのは対象のわずか1.6パーセントの約3,300人だった。住民が呼びかけに応じなかった面もある一方で、呼びかけ自体がうまくいかなかった例もあった。県は「結果的に逃げた人が少なかったのは重大な問題」として、訓練の見直しを検討している(以上、朝日新聞3/16)。今回、避難勧告発令時の津波は1メートルの予想であった。結果的には避難勧告を出さなかった別府市が50センチ、大分、佐伯が40センチだった。いずれにしても、「いつか我が身」という緊張感で日常の備えをしておかねばならぬ。

今度の東日本大震災についての情報は、マスメディアのトップ扱いが原発事故関連に重心を置きだした。今日の官房長官の記者会見では、福島原発周辺農地で生産された原乳や葉物野菜の出荷見合わせや摂取見合わせが発表された。「通常の摂取量では直ちに人体への影響はないが、差し控えた方がよい。」といつもの調子の物言いである。これで人々や生産者が安心するだろうか。これで風評被害が防げるだろうか。放射性物質の人体への影響については専門家が各テレビ局や紙面で解説しているが、もっともわかりにくいのは政府や東京電力原子力安全保安院の説明である。安全を強調するほど逆に不安が増すような気がしてならない。
「微力だが無力ではない」「思いは見えなくても思いやりは見える」
最近よく見聞きするフレーズである。
被災地の悲惨な状況を見て「何もできないのが悔しい。ただ祈るだけです。」
という被災者へのメッセージを聞いた人が
「何もできない祈るのみ、ではなく何かができる、何ができたか、というメッセージでなければだめだ。」
という声を聞いた。その通りだと思う。それではおまえは何ができたか。今のところ義援募金にささやかに応じただけだ。