Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 どうなるの?別大国道脇の墓碑

 7月10日のブログに書いたように、江戸の昔の別府ー府内間の海岸寄り陸路は大変な道でした。一般的な陸路の高崎山の裏を通る道も峠越えの難路でした。したがって、別府の浜脇から府内へは、陸路を避けて海路が利用されました。
貝原益軒(かいばらえっけん)

「別府より舟に乗りて府内へ行く、漕出し後は日和もしずけし、高崎山の麓を過ぐ」

(『豊国紀行』)と、海路を利用しました。また、田能村竹田(たのむらちくでん)

「別府を発す、霞村・啓助・左仲同船にて相送る、(中略)神楽石に登り小酌す、石海中に在り、面闊(ひろく)して平ら、二三十人坐すべし」

(『黄築(きつき)紀行』)と記しています。竹田ご一行さんは神楽石に上がって一杯やったと見えますが、2,30人も座れて神楽もできるほどの大石が一体どのあたりにあったのでしょうか。
    
上の古絵図を見ると、佛崎あたりかなあと思いますが、勿論、最初の国道工事で地下に埋まってしまい今は見ることができません。佛崎といえばあの大惨事を思い起こします。昭和36年10月26日午後3時、別府行きの大分交通電車が大雨による大規模な崖崩れに巻き込まれ、死者31人、負傷者38人を出したあの痛ましい事故です。あれからもう48年経ちました。あの大惨事の現場と神楽石があったところは近いのではないだろうかと思って、また、何か神楽石の痕跡を示すものはないかと、何度か歩いてみました。車では何度も通りますが、歩いてみると怖いです。人一人しか通れない歩道の横を猛スピードで車が走ります。大型車が通ると風圧で道路側に巻き込まれそうになります。ちょうど佛崎のところの海側の歩道に2メートルほど、コの字形にコンクリート壁が突き出たところがありますが、ここに1基の龕(がん)らしきものと1基の墓を祀っています。

左側の龕らしきものには銘も何もなく中に古びたお札と「なしか!」の焼酎の一合瓶がありました。右側の墓の正面は「南無妙法蓮華経」と彫られ、左側面には
「昭和四十六年五月十八日 
   山本新造
   妻 ナツ
   長男清一
   妻マサエ  建之」と、あります。
墓が建てられた昭和46年は、別大間の電車が廃止されて国道の4車線化が始まる1年前の年です。このお墓は、電車埋没事故の10年後に身内の犠牲者の御霊を祀って事故現場近くに建て、1年後に始まった4車線化工事のためにのけられ、4車線実現後に現在地に移されたのではないかと推測しました。ところが、この墓の横にある、次のような文面の小さな立て札を読んで、心配になりました。
「本建立物については道路区域内に建てられており、今後道路の拡幅工事に伴い撤去することとなります。工事着手は平成21年度を予定しておりますので、関係者の方は左記までご連絡頂けますようお願いします。    平成19年12月3日 
 国土交通省  大分河川国道事務所 工事第二課  TEL 097・544・4167」
 確かに現地の海側は、既に幅20メートル以上も埋め立て、拡幅している状況で、工事が完成すればお墓は道路の真ん中近くに位置してしまいます。このお墓は、またもや移転を余儀なくされそうです。国道事務所も建立者に連絡つかなかったからこの立て札を立てたのでしょう。墓碑の建立時からもう38年も経っていますし、立て札を立ててからも既に1年半が過ぎています。他人事ながら、このお墓の行く末が心配です。
 お墓の横に50センチ位のお地蔵様がありました。正面にはたくさんの貝殻がくっついているので、海中に落ち込んでいたものを引き上げてここにおいてあるのでしょう。側面には「為有縁無縁各霊菩提也」と彫られています。数珠も線香も供花も持ちませんでしたが、手を合わせて黙祷しました。神楽石の痕跡探しが、墓参りになってしまいました。(参考:『別府の古い道 歴史散歩 p8』別府史談会発行)