Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 別大国道全線6車線化は再来年実現

 昨日、コーラスの定例練習のため大分市まで行きました。別府から大分に車で行くには、普通は10号線の別大国道を走りますが、4車線の頃は、時間によっては渋滞し1時間近くかかっていたのが、6車線化の進んだ今は40分足らずで行けます。
 さて、ググッと遡って江戸の昔の別大間の陸路はどうだったのでしょうか。
浜脇から長覚寺、崇福寺の門を通り、山家の集落を抜け赤松から銭瓶峠に出て高崎山の裏を回って大分(府内)へ通る、旧豊前道が一般的でした。現在の別大国道、つまり、高崎山の東側は急峻な崖がそのまま海に落ち込んでいました。伊能忠敬は文化7年(1810)、両郡橋のある鳴川から白木村、生石の浜の市までの高崎山東麓の崖道を測量しました。益軒は『豊国紀行』に次のように記しています。

「…(府内に)陸地を行けば高崎の西の方赤松嶺を越す。難所也。其南の下に赤松村あり。此道は遠し。歩行(かち)にて行けば山の東海辺なるがけ道を行く、近し。道細くして危うしと云う。此山を里人は四極山という。」

また、古川古松軒は『西遊雑記』

「別府より府内へ行く浜道はいたって嶮岨の道にて、西の方は大山峙(そばだ)ち、東は大海にて狭く一筋道にて、互いに待ちあいて、少し広き所にてゆき違う事にて、誠にいのちがけにて通行する所なり。」

さらに、臼杵藩の道中記には

「浜辺通り近道あり、駕籠は参り候えども折々難所あり、馬は参らず。本道高崎越行くより壱里近き由。」

とあります。これらの史料から、海岸の道を通るにはそうとうな難儀であったと思われます。
 またまた、ググッと今の別大国道に話を戻しましょう。
 昭和47年(1972)に別府ー大分間の大分交通電車の廃止に伴って、国道の4車線化が進められましたが、急速なモータリゼーション化で別府大分間唯一の幹線道路の交通渋滞がひどくなり、6車線化の必要に迫られます。
平成5年(2004)  6車線化工事開始 
平成16年(2004) 西大分ー田ノ浦間、完成
平成17年(2005) 高崎山ー生石間、完成
平成19年(2007) 東別府ー高崎山間(1,8キロ)のうち、東別府寄り700メートル、 高崎山寄り300メートル完成。「新タイプのフレア護岸工事」  
高崎山の直下は異常に深く、傾斜が激しいために、どのような工法が適しているかという議論の結果、「フレア護岸工事」という工法が採用されました。

左図は通常の護岸工事、右図は新タイプのフレア護岸工事です。新タイプフレアは、海底の岩盤深く、長くて太い鋼管を埋め込みコンクリートを支えます。まるで歯科治療のインプラントのようです。全体の工事は下の図のようになっています。

次の写真は昨日、大分へ行く途中の道路脇の駐車場から撮ったもので、左が別府(両郡橋)方面を見たところ、右が大分(高崎山)方面を見たところです。
 
この間300メートルぐらいが、まだ海側への拡幅ができていません。両郡橋側の資材置き場には、大きな長い鋼管が積まれています。新タイプのフレア護岸工事の採用は日本では初めてだそうですが、事故なく無事に完成して欲しいものです。
平成23年度(2011)には全線6車線化が実現する予定だということです。その曉には、泉下の貝原益軒さんや古川古松軒さんに甦って貰って、ぜひ、6車線の別大国道を見て欲しいものです。温故知新、古きをたずねてこそ新しきもののよさがわかるものです。別大国道を走りながら、時には江戸時代の道路事情にも思いを馳せてみたいと思ったことです。○○ウォーキングであちこちの道を歩きますが、この道は誰が一番最初に通ったのだろうか、昔からこの道なんだろうかなどと思いながら歩くと、また列のしんがりになってしまいそうです。私は、‘シンガラーのアルキスト’(しんがりの歩き人)を自認しているから、ま、いっか。(参考:『別府の古い道 歴史散歩』別府史談会)