Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 一つ戸城跡

 父母、先妻、甥の祥月命日と盆・正月、春と秋の彼岸には墓所と仏壇に参ることがならいとなっている。昨日は仏参後、80歳になる一人暮らしの姉とお茶を飲み、世間話をして帰った。帰路、急に思い立って、耶馬渓町のR212号線の近くに残るという一ツ戸城に初めて行ってみることにした。伝承によると、一ツ戸城は建久3年(1192 頼朝が鎌倉幕府を開いた年)に友杉民部が築城して天正年間に黒田官兵衛豊前国に入ったときに黒田の出城にし、黒田家が筑前福岡に移ったあと、細川忠興の出城になった。その後「一国一城令」で廃城となるまで残された。 
城跡への道の入り口の大きな金網の扉には、猪が山から出るので開けたら閉めよ、と書いた札がある。凹凸のひどい林道を走ること7分あまり、城跡登山道入り口の立て札があり、ここからは車を置き、革靴のままの山登りとなる。

暗い杉山を稲妻状に上る急坂には手すりのロープが張られているが、所々支柱が倒れていたり強く体重をかけるとぐらぐらするはなはだ頼りない命綱である。

30分ほど歩くと城跡の麓に近づいたのか、道らしき道はなくなり、赤い目印のリボンを頼って40度以上の傾斜角の滑りやすい山肌を登る。

苔むした石や落ち葉に革靴を滑らせあえぎあえぎ木の枝をつかみながら登っていくと、やっと「本丸跡へ」の矢印。

木の本に数枚の割れた瓦を積んであり、藪椿の花が落ちていた。

「頂上はまだかよ」とよたよたしながら落ち葉を踏みしめて登り行くと、嬉しやあと少しで本丸跡にたどり着けそう。

登山道入り口から何枚かの案内板があったが、距離を数字で示してくれているのは「あと200m」のこれだけ。

やっと着いた。車を乗り捨てた登山道入り口から約50分。本丸跡は学校の教室一つにもないほどの狭いところである。往時を偲ぶよすがとなるものはこの平面には何もない。細川氏の出城時代だと思われるという壊れて緑色に苔むした石垣の一部と数段の石段に、わずかにここが城跡であることを伺わせる。三橋美智也の名唱『古城』のような「仰げば侘びし天守閣」もなく、「往古を語る大手門」も無いので「矢弾のあと」もない。殺風景といえば殺風景なのだが、時折吹き上げてくるここ城山の麓からの春の風が雑木をふるわせるのを聞くと、戦国の世のもののふのさまをちょっぴり偲ばせる。


急坂は上りもつらいが降りるときは膝が笑ってなお厳しい。水分補給なしの思いつきの2時間の城址探訪だったが、誰ともしゃべらない一人きりの山登りもまた愉し。
今日は太股がぱんぱんに張っている。