Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

幕末のマルチ博物学者

11月6日(日)、宇佐市大分県立歴史博物館(宇佐風土記の丘)の開館35周年記念特別展「生誕200年記念 賀来飛霞」に行って来た。過日、先哲史料館の企画展「空海への思いと山の聖」に行った際に、この賀来飛霞展のチラシを目にして、幕末の「本草学者」という程度しか知らなかった賀来飛霞について、これを見逃す手はないと思った。 
       
特別展の会期は10/14〜11/20までだが、展示と記念講座・シンポジウムが開催される11月6日に会場を訪れた。
展示
展示会場でもっとも興味を惹いたのは本草学者らしい数多の写生図である。これらは主に草類・木類・魚蟹図稿と鳥類・虫類・菌類図稿に分けられる。素人目には描法の差はわからないが、シンポジウムの《報告3》の高宮なつ美学芸員によれば、描写には粗密があり対象によって構図や着彩法を変えていて、また、色の濃淡によって対象の立体感を表現する技法から、西洋画法も学び取り入れている可能性もあるという。12歳の時に描いたビョウヤナギ、キシンバイやシャクナゲ、13歳の時の描画スモモ、ハチク等に幼い頃から持っている彼の才能を見せられた。

      
           アラカブ
賀来飛霞は杵築藩士の絵師十市石谷(といちせっこく)に絵画を学んだが、「賀来飛霞老人筆戯」と題する水墨画は豊後南画の描法で描かれているといわれる。
記念講座 「博物学者としての賀来飛霞」 別府大学教授 段上達雄
賀来飛霞についての本格的な研究書が世に出るのは1980年代になってからで、それ以前は大隈米陽編著の『豊前国佐田郷土史や』『安心院町誌』で触れられているぐらいである。賀来飛霞に関する史資料は賀来家から宇佐市へ寄託され、歴史民俗資料館で収蔵・管理され今日に至っている。1971年に宮崎県立総合博物館の開館記念特別展「賀来飛霞著『高千穂採薬記』の周辺」が開催され、賀来飛霞が集めた標本760点が宮崎県立総合博物館に寄贈されたという。なんだか肝心の地元大分県は、賀来飛霞を軽んじていたのではないかと思う。そもそも本草学は中国で発達した医薬の学問体系だが、明の李時珍が中国本草学の集大成である『本草綱目』を出版、これを 朱子学林羅山が抄出して和訓を付して出版、さらに儒学者本草学者の貝原益軒が『本草綱目』の分類をさらに発展させ日本の動植物・鉱物を中心に農産物・雑草までを記載し、これが近世における最高の生物学の書となった。貝原益軒は自ら観察して実証するという近代科学的態度で研究し、出版した『大和本草』には図版を多用し、仮名表記で実利的配慮が為された。江戸中期には“出島3学者”といわれたケンペル、ツンベルク、シーボルトなど、医師であり博物学者でもある3人によってヨーロッパ博物学流入した。ケンペルは『日本史』で日本を初めて体系的にヨーロッパへ紹介し、ツンベルクは蘭学者らに植物標本の作成法を指導し、シーボルト鳴滝塾を開設して西洋医学蘭学博物学を伝授した。
 【賀来飛霞略年譜】
・1816年正月30日、豊後国西国東郡高田町(現、豊後高田市)に医師の賀来有軒の子として誕生。通称睦三郎・睦之。
・1歳、父が病死後母の実家の杵築に寄寓、
・5歳、豊後の三賢の一人、儒学者帆足万里のもとに入門、医学と本草学を学びはじめる。
・13歳、十市石谷に写生画の技法を学ぶ。
・18歳、17歳年上の異母兄佐之(すけゆき)とともに京都の山本亡羊のもとで本草学を学ぶ。
・24歳、『由布岳採薬記』を記す。
・26歳、近畿・東北・北陸・甲信越各地を旅して旅日記や紀行、採薬記等を記す。
・28歳、佐田村で兄の跡を継ぎ医業開業。
・29歳、延岡藩の依頼で日向で現地調査、その結果を『高千穂採薬記』に記す。
・35歳、島原藩の命により『救荒本草略説』を書く。
・41歳、島原藩医であった兄佐之の死去に伴い、島原藩医に任命される。
・51歳、島原藩医医師惣領となる。
・60歳、宇佐郡公立四日市医学校長兼病院長となる。
・62歳、東京大学小石川植物園取調掛となる。
・65歳、伊藤圭介と『小石川植物園草木図説』『小石川植物園目録』を刊行。
・70歳、小石川植物園退職後郷里佐田村へ帰郷。
・78歳、佐田村で死去。
 賀来飛霞が本草学者、博物学者、医師として名を成した背景には、平和な江戸期にさまざまな学問が発達して外国文明の吸収が盛んだったという時代背景に加え、優れた師(帆足万里、十市石谷、山本亡羊)や友人(伊藤圭介)に恵まれたことがあったことを忘れてはならない、さらには父有軒、兄佐之や従兄の賀来惟熊(かくこれたけ)を代表する賀来一族の深く結ばれた絆も、賀来飛霞の活躍と業績に大きく影響したと考えられる。
シンポジウム
《報告1》賀来飛霞の記録した民俗ー「高千穂採薬記」よりー 学芸調査課長 菅野剛宏
 延岡藩の以来により1845年3月から5月までに延岡、高千穂等で行った採薬記は、単に採薬のみならず自然、文物、暮らし、風習等現実に見たものだけでなく聞き書き等も蒐集した民俗学的な記録である。これに関しては、2016年10月22日より12月4日まで宮崎県総合博物館企画展「賀来飛霞の見た自然と歴史〜延岡藩と高千穂採薬記〜」が開催されているという。
《報告2》賀来飛霞と佐田賀来家の大砲鋳造事業 主任学芸員 平川 毅
幕末期の島原藩豊前宇佐郡佐田村(現・宇佐市安心院町)で行われた大砲鋳造事業は、佐田村庄屋賀来惟熊とその4人の息子の惟寧、惟準、三綱、惟のぶたちによって成し遂げられた民間人初の一大事業であった。豊後日出藩の儒学者帆足万里に勧められて青銅砲の鋳造を試み、一定の実績に基づいて1853年(嘉永6)に島原藩の許可を得て佐田村の佐田神社反射炉を建設し、鉄製砲の鋳造に取り組んだ。耐火煉瓦の製造や反射炉の鉄の溶解に失敗して試行錯誤の上、1857年(安政4)頃までに、6ポンド砲4門、12ポンド砲2門、18ポンド砲2門を鋳造して島原藩へ納品した。惟熊の大砲鋳造事業の目的は、藩の海防強化のための必要に応じて行ったものだと思われていた(自分もそう思っていた)が、真の目的は佐田村の住民の生活安定のためのいわば授産施設としての地域産業だったのではないかという平川さんの仮設には、うーん、なるほどと納得できるところがあった。
別府へ帰る途中にある佐田神社の、反射炉のたった一つの遺物である神社本殿裏の「耐火煉瓦」で作った塀を数年ぶりに見た。前よりいっそう一部が朽ちて風化が激しくなっていることに心が痛んだ。このまま風雨にさらしておけば早晩、壁は崩落してしまうに違いない。賀来一族の働きに思いをはせつつ、藪蚊を払いながら、すこし寂しくなってしまった。

   反射炉の煉瓦朽ちゆき冬に入る 
午前中2時間20分の展示観覧(510円)と午後の2時間40分あまりの記念講座ととシンポジウム(無料)で知的好奇心を十分に満たされた。賀来飛霞や大砲鋳造に少しでも興味のある人には、11月20日までのこの特別展観覧を勧めたい。
会場で買った『幕末の賀来一族 飛霞と惟熊』(梓書院刊 800円)は優れものである。本文中のチケットの半片と最後の煉瓦塀以外の写真はすべてこの本から引用させてもらったことをおことわりする。