Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

「世相」民の声

          
毎月1回、公民館の「歴史の謎解き教室」を受講している。講師は別府大学の後藤重巳先生(別府史談会会長)であるが、毎回、別府や近郊に関する数少ない古文書をもとに、江戸時代の庶民の生活の様子を学ぶことができて興味深い。新年初めての今日は二つの史料が取り上げられた。
江戸時代までの日本はがんじがらめの縦の身分制度が徹底されていていて、為政者からの上意下達によって秩序が保たれていた。下から上に意見を言うことなどは当然御法度。ましてや百姓が一揆で訴えるなどは即極刑。だから百姓・庶民は、何も言えずお上の言うとおりに忍従の一生であったかというと、さにあらず、けっこう庶民なりの自己主張をしていた。それは、狂歌・狂句・戯作・落首(らくしゅ)・落書(らくしょ)などによってお上を皮肉ったり、からかったり揶揄したりという手法である。
1,山香町佐藤文書
 これは、幕府や藩からの命令の文書が矢継ぎ早に、それも形式的なものが乱発される事への抵抗を庶民感覚で笑い飛ばした戯作(げさく)である。内容は、奉行所から庶民に下した文書を「洗濯所」から「虱・蚤・蚊」へ出した文書という体裁で、それに対する庶民側の文書を「恐れながら願い上げ奉る三ケ仲間(虱・蚤・蚊のこと)より口上書」という形で書いてある。文末の日付と差し出し人名が面白い。
 蚤取元年蚊五月 
         畳屋町筋ほこり丁  蚤仲間総代 豆屋飛助 判
         せすじ町千手くわんのんまへ 虱仲間総代 麦つぶ屋清九郎 判
         ため水町総代    蚊仲間総代 棒ふりや忠助 判
         大どぶのはた 幼少にて代判  倉がりや文右衛門 判
 完全にお上をおちょくっているのである。

「目安箱}は8代将軍吉宗が享保の改革の一環として民意聴取のため一般庶民からの声を集めたものだとは、学校で習ったとおりである。これは代々の将軍に受け継がれたが、記名制だったので、お上の都合の悪いことを書いたら投書の主が詮議されてしまうことにもなりかねないので、本音は多分書かなかっただろう。したがって、本音は無記名でしか投書できないが、無記名や偽名の投書はその場で焼き捨てられた。その焼き捨てられるべき無記名の投書を宇佐の大庄屋がそのままの文面で、字も似せて、今でいうコピーで残していた。この投書文は誤字、当て字、方言、会話調入り交じっていて、いかにも村人の書いたものである。

2,かけこむねがひ
           慶応二寅二月四日
                    青森村  村中
御上様御めんなさるるよふに、ねがいのことに付ま志て、もふし上まする。
うわさにきけば、青森村の庄屋を、和木村の庄やと辻村の庄やとわ、かいまするそにききましたかど、青森村の三蔵には、庄やをわた志くださらぬよにねかいまする。三蔵という毛のわ、ふほなものでこさりまする。… 
 三蔵さん、相当の青森村の嫌われものっだったようだ。父のだん兵衛が息子の三蔵に庄屋の跡目を継がせようとしてるが、このだん兵衛さん、村の神田、仏田まで自分のものにしたばかりか、下百姓の屋敷も取り上げるは、借りた金は返さぬはで蛇蝎の如き嫌われよう。だからこの親子は庄屋として全く不適だから、庄屋にしてくれるなという「箱訴}である。結果は、無記名投書に過ぎないから取り上げられず、三蔵が次期庄屋に任命されたようである。
 
古くは後醍醐天皇建武のころ、新政を風刺した「二条河原の落書」が有名であるが、江戸中期には多くの狂歌・狂句が御政道批判をくり返している。勿論これらを全く取り上げなかったが、ちくちくと身を刺され為政者の心理を揺さぶったことは間違いあるまい。
さてひるがえって今日の我が民主国日本は、憲法16条で国や地方自治体に対する請願権が保障され、民の声は施政に反映するようになっているし、選挙権という最大の「民の声反映システム」が保障されている。が、多数決の原理が働くため、与野党ともに組織的選挙活動によって得票を狙うために、選挙が本当に一人一人の民の声を拾っているのか疑わしくなる。相も変わらぬ政争に辟易している私などは、いきおい、狂句・川柳の類でちくりと注射したくなるのだ。この2,3日の国会予算委員会のやり取りを見聞きしていると、切歯扼腕の限りで、つい、ごまめの歯ぎしりのような川柳(狂句)づくりに気が向いてしまう。したがって、最近は俳句の勉強がついおろそかになっている。こまったものだ…。