Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

北原白秋

        
 「からたちの花」「この道」「ペチカ」「あわて床屋」「待ちぼうけ」「砂山」などは、今まで男声合唱で歌ったことのある曲です。「柳河風俗詩」は多田武彦が曲をつけた男声合唱組曲で、何度か歌い、今でも全国何処かの男声合唱団で歌い継がれている名曲です。その他「ゆりかごのうた」や「城ヶ島の雨」、「ちゃっきり節」はいずれまた歌う機会がある歌だと思います。
 詩・短歌・童謡等、読み継がれ、歌い継がれる詩をたくさん残している北原白秋です。柳河の生家が火事にあったあと没落して以来上京して生活に困窮したり、3人の女性と恋をして結婚、離婚をくり返すなど、情熱的なこの文学青年は波瀾万丈の人生を送って昭和17年11月に糖尿病の合併症により、58歳で没しています。没後も多くの詩集・歌集・遺作集等が刊行されています。
照る月の冷さだかなるあかり戸に眼は凝らしつつ盲ひてゆくなり 
過日、公民館講座で後藤惣一先生の「北原白秋」を聴講しました。その中で一番興味を引かれたことは、白秋は2回結婚・離婚し、3回結婚したといういきさつでした。そしれ2回目と3回目の夫人は大分県に関係の深い女性だということです。初めの女性は白秋の隣家に住んでいた松下俊子です。二人は恋に落ちますが、俊子は新聞記者の夫と別居中の人妻です、今で言う不倫ですね。二人は夫から姦通罪で告訴され、拘置されますが2週間後釈放され和解が成立し告訴は取り下げられます。翌年1913年(大正2)、俊子と結婚。翌年俊子の肺結核療養のため小笠原父島に移住するもほどなく帰京。貧窮と俊子と父母の折り合いが悪く、離別します。
かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち馬車の軋みてゆく礫道(こいしみち)
        
 1916年(大正5)、白秋32歳のとき詩人江口章(あや)子と出会い同棲し、5月に結婚。この頃白秋は鈴木三重吉創刊の『赤い鳥』に参加し、童謡、児童自由詩を書き、翌年、最初の童謡集『とんぼの眼玉』を出版します。白秋は小田原の住居の隣りに山荘を建てますが、その新築の祝宴は小田原の芸者総出という派手なものでした。今まで白秋の生活を支えてきた弟らがこれに反発し、章子を非難します。着物をほとんど質入れしたという章子は非難されるいわれはないと反発し、その夜、出奔してしまいます。白秋は白秋で章子の不貞を疑い、とうとう離婚しました。章子は、情熱的な詩人であると同時に、直情径行なところもあったようです。江口章子の半生も波瀾万丈だったようですが、これについては次回に。