Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 明礬地区の温泉と湯の花小屋

恒例の別府史談会夏期現地学習が22日(日)に行われた。毎年8月のこの第3日曜日は、自治会の公園草刈り作業と重なってしまう。地区の方には申し訳ないが、朝7時半から8時10分までで作業を途中で抜け、帰って大急ぎでシャワーを浴びたあと、8時半からの受付場所の明礬湯の里まで車を駆った。
明礬温泉別府八湯のひとつである。ここの上を走る高速道路を通ると、強烈な硫黄の匂いが鼻をつく。古くからこの地にひしめくの湯の花小屋が、明礬温泉のシンボルとなっている。 

渡邉五郎右衛門が明礬製造を始めたことを伝える脇屋家文書の一部である。市指定有形文化財

明礬・湯の花の盛衰
 明礬は硫酸アルミニウムと硫酸カリウムの結合物で、染色・製紙・製革・医薬などと用途が広く、別府では寛文年間に渡邉五郎右衛門が初めて製造に成功した。その後、唐明礬(中国製)に押されて国内産は打撃を被ったが、享保年間、当地の脇屋儀助が唐明礬に匹敵する良質の明礬製法に成功、日田代官に唐明礬の輸入差し止めを訴えて認められ明礬専売の道を開き、これにより儀助は明礬市場の70パーセントを独占して大いに栄えた。その後、山崩れによって湯の花小屋が流出したり、明治になると再び安価な中国産明礬の大量輸入で豊後明礬は製造販売不振となってしまった。大正から昭和にかけて、明礬製造から入浴剤の湯ノ花製造へ転換した。かつて明礬を製造していた明礬地区、湯山地区一帯には多くの硫気孔がある。この噴気から出る硫化水素と二酸化硫黄の上に小石を敷き詰め、その上に付近の山に産する青粘土を張って、噴気を藁葺き小屋の地中に通して数週間放置しておくと湯の花の結晶ができる。
 この湯の花も戦中から戦後にかけて一時衰退したが、近年の温泉ブームに乗って復活し、平成18年に湯の花製造技術が国の重要無形民俗文化財に指定されるや、明礬温泉湯の花製造技術保存会が結成され今日に至っている。ただ、近年青粘土が不足し、確保のためのボーリング調査を始めている。

大分県猛暑日4日連続記録という異常な酷暑の中、硫化物を含む白い土を踏みしめ、硫黄の匂いを深く吸いながら湯の花小屋を見学したが、岡本屋の社長さん(岡本家初代岩瀬正綱は明礬山奉行として明礬製造に当たった)や湯の里の女社長さん(脇屋家)、地元湯山に住み明礬製造に詳しい史談会副会長のTさんなどのガイド付きの見学は初めてであった。
山ノ湯・明礬地獄
 
山の湯の展望温泉から見晴るかす高速道の向こうに高崎山が見える。
 
地蔵泉鎌倉時代に開設された古い温泉で三体の地蔵菩薩が祀られている。湯量が減り現在は閉鎖されているが、地元の地蔵信仰は篤く線香や供花、供物が絶えない。 
明礬薬師寺
妙場地区の西側山の手にある薬師寺には、さまざまの願掛け地蔵水子地蔵が祀られている。付近の岩場などに祀られた二百体以上の諸仏が修行の滝場の横に集められ、「明礬八十八か所」と呼ばれる。あたりはひんやりと真夏でも涼風が流れホッとひと息、あふれ出る冷たい水で喉を潤した。
 
 
鶴寿泉
江戸時代前期の単純酸性泉で入浴料無料。ここも地蔵が祀られていて、温泉は無料だが賽銭と供花が絶えない。
 
鶴寿泉横には明治35年建立の「瀧浴場私設紀念碑」があり、碑の側面には「工事監督人 加藤佐太郎」と刻まれているが、この人物が向かいの明治7年創業の老舗ゑびす屋旅館の初代当主だという。

今年も別府史談会夏期現地学習は油照りの猛暑の下で、汗を拭きふき水分補給をしながら2時間かけて行われたが、別府市民として知らない市内のことを多くベンキョウした。なんだか小学生の夏休みの宿題のフィールドワークを終えた気分であった。帰りに柴石温泉で一汗流した。