Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 炎天下の市内史跡探訪

恒例の別府史談会「市内歴史学習」は8月28日(日)、今年も暑い夏の盛りに行われた。
天満宮神社
天満神社は他に野口、北鉄輪、平田、天間の地などにもあるが、南立石本町にあるこの天満宮は入り口の石碑には「天満天神宮」とある。天満社だから祭神はいずれも菅原道真である。ここの神社には石垣原合戦の図の天井画33枚が展示されている。通常は非公開だが、史談会の夏季学習のために特別に開けてくれ、貴重な天井画を垣間見ることができた。床に寝転がって、紙芝居のようなこの合戦天井絵をゆっくり見たかった。原画は元陸軍日出生台演習場看守横田少佐の作品で、後に県立芸短大生が拡大模写したものであるという。
境内のご神木の樟は市指定保護樹で幹囲8メートル、樹高18メートルもある巨木だ。
 
境内の一角に大友義統の家臣,宗像掃部の墓がある。以前、大友本陣跡の北西の道路を少し入ったところにあったのを見たが、道路改修工事のため、今年1月にこの地に移されたという。

大友本陣跡
天満宮神社参道の入り口付近の古谷氏本家の敷地内に「石垣原古戦場 大友義統本陣跡」の石碑がある。

石垣原合戦は、慶長5(1600)年9月、別府石垣原一帯において、豊臣方の大友義統と徳川方の黒田如水の軍勢が7回にわたって闘った戦である。東軍徳川方対西軍豊臣方の天下分け目の関ヶ原の合戦と同じ慶長5年に起こったので、石垣原の合戦は「西の関ヶ原の合戦」ともいわれる。この合戦に大友義統方は敗れ、400年間豊後を支配した大友氏は22代で潰え去ることになった。
北白川宮成久親王殿下覧古碑 征露軍人祈念塔不動尊 宗像掃部陣所跡 

覧古碑は、大正6(1917)年10月9日、親王が南立石村を訪れ、このあたりから石垣原古戦場を俯瞰されたことを記念して建てられたものであるが、石碑の裏面に長々とそのときの情景が刻まれている。不動尊は、等身大の不動明王であるが、明治38年1月建設という銘がある。時あたかも日露戦勝を裏付ける旅順開城や水師営の会見が行われたときに重なる。
この地は標高265メートルの高台であり、眼下には鶴見原(石垣原)が広がり、その先には黒田如水本陣の角殿山(現ルミエールの丘)と黒田方の細川勢が布陣した実相寺山(ともに標高170メートル)を見はるかすことができる。宗像掃部はこの地に陣を張り黒田軍に対峙した。今は覧古碑の横に宗像掃部陣所跡という標柱が立てられている(いた)。昭和47年5月10日 指定 別府市教育委員会とあったが、2年前訪れたときこの標柱は字もかすれ傾いていたが、今回見たときには、憐れこの標柱は倒れて片隅に朽ちつつあった。いくら黒田軍に敗れ討ち死にしたとはいえ、彼は大友軍の左翼の大将であった(観海寺ホテル群の東端標高140メートルの坂本、みゆき坂展望台に布陣した吉弘統幸は鶴翼の右翼の大将であった)。その宗像掃部の陣所跡の標柱が倒れて朽ちているのはいかがなものか。かねがね別府市文化財行政の寒々しさを感じていたが、文化財への関心がないのか予算がないのかその両方なのか、この有様を見て、市の文化財行政の貧困、ここに極まれりの感を深くした。
井上邸鏝絵

高台のすぐ横に井上家があり、道路から見事な鏝絵が見える。県下の鏝絵は安心院や院内町が有名であるが、この井上家の鏝絵は立体的なデザインが特徴である。当主が辰年であったので龍の絵柄であるが、今にも天に昇りそうな臨場感のある見事なもので、半世紀を経た今でも変わることのないそのいきいきした鏝絵は、当時の左官職人の技の高さを物語っている。
海運寺
杉の井ホテルの前の道を山の手へ上った右手にある。曹洞宗山号は太平山、本尊は釈迦牟尼座像。南北朝時代の開山で、慶長大地震で倒壊、江戸時代初期に再建された。大友義統降伏の際、この寺院で剃髪したと伝えられる。本堂南側のカヤの大木は市指定の保護樹で幹囲3,15メートル、樹高16メートルの巨木である。

杉の井地熱発電

東電福島原発事故以来、原子力化石燃料にたよらない、クリーンエネルギーによる発電所の建設が焦眉の課題として話題になっている。別府市内にはこれを先取りした地熱発電所があることは知ってはいたが、実際に現地に行ってみたのは今回が初めてである。この地は昭和22(1947)年、工業技術庁による日本最初の地熱発電試験が行われた地熱発電発祥の地である。現発電所は昭和56(1981)年3月に運転開始、出力3,000kwで、ホテルの照明をはじめ、冷暖房・エレベーター・厨房・アミューズメントなどに利用しているということである。
復興泉と観海寺温泉

観海寺温泉は古くから開けた温泉だが江戸時代に開発が進み、明治時代の『速見郡村誌』によれば、浴場1か所宿屋8戸、1年間の入浴客およそ1,500人とあり、おおいに賑わった。現在の薬師堂位置が浴場で、二階は浪曲や寄席に使われたという。昭和6年の観海寺大火災で観海寺温泉・旅館・巡査駐在所・住宅など19戸が全焼し、後、現在地(公民館一階)に復興泉として再興された。この復興泉は、現在一般客の入湯はできないが、温泉祭りの際のみ公開される。
薬師堂
昭和8年に速見郡石垣村村長・熊谷褚太郎により建立された。「薬師寺記念碑」に次の一文がある。
「観海寺温泉場ノ大火ノ瞬時ニシテ、全戸ヲ焦土ト化シ、本堂ハ猛火ノ裡ニ在テ災火ヲ免ル、郷人奇蹟ニ驚嘆ス、這回霊域浄化ニ際シ、荘厳ナル堂宇ノ建立ナル。」
観海禅寺
観海寺縁起によれば、奈良時代の養老2(718)年に仁聞菩薩がこの地に温泉を開き諸処の病人に入浴させ、寺を建て、観海寺と称した。自ら薬師如来の尊像を彫刻してこれを本尊とした、とある。国東六郷満山を始め全国あちこちの寺の開基が仁聞菩薩となっているが、この寺も御多分に漏れず、仁聞菩薩様である。全国至る所にある「弘法様の井戸」とおなじように、これも伝説と考えた方がよさそうだ。観海寺は明治維新の頃廃寺となったが昭和13(1938)年に再興され、現在は曹洞宗清寧山観海禅寺。

境内には式子内親王後白河法皇の第三皇女)の墓がある。彼女は当地で湯浴みして没したという伝説があるが、「新古今和歌集」に「玉の緒よたえなば絶えねながらえば忍ぶることのよわりもぞすれ」の歌が残っている。
また、杉の井で最後の夜を送った特攻隊員を祀る「憩翼碑」も建っている。
吉弘嘉兵衛統幸陣所跡

最後の史跡見学は、みゆき坂展望台の大友方鶴翼の陣右翼の大将、吉弘統幸の陣所跡である。この地は朝見川断層崖の標高140メートルの高台にあって、大友本陣・宗像掃部陣所と同じく天然の要害である。今は樹木に覆われていて見えないが、東南側は豊前街道高崎山山麓の銭瓶峠を俯瞰できるという戦略的にも好都合な地であった。

汗を拭きふき、たびたび水分補給をしながらの史跡探訪であったが、“善喜”高齢者や“高貴”高齢者が多いにもかかわらず、旺盛な知的好奇心が体力をカバーして、最後まで落伍者なく見学を終えることができた。説明の先生方、現地の案内の方々や関係者に感謝したい。