Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

波瀾万丈の人生 情熱の詩人 江口章子

         
 5月22日に書いた北原白秋の記事で、白秋の2番目の妻・江口章子(あやこ)について触れましたが、章子が白秋と出会う前と、白秋と離別したあとの章子の人生をたどってみたいと思います。
 明治21年(1888年)、大分県西国東郡香々地町(現、豊後高田市)に三女として誕生。江口家は大阪通いの貨物船まで持った米屋・酒造業でした。小学校の通学に使用人がお供するほどの分限者でした。長じて大分県立女学校に主席合格。母の実家の威徳寺(瓜生島にあったが、瓜生島沈没後大分市勢家に再建の名刹)に寄宿して通学。卒業前に弁護士の安藤茂九郎に見初められて結婚します。夫が検事となって柳川に転勤しますが、この頃から夫の女遊びや酒乱に悩まされ愛想を尽かして離婚、故郷の香々地に帰ります。上京して女性解放運動の平塚らいてふを頼り青鞜社にはいり、野上弥生子伊藤野枝岡本かの子らと交友を持ち文学に親しみました。文学を通じて白秋と親しくなり、大正5年(1916年)に白秋と結婚します。白秋との蜜月時代はわずか4年、大正9年(1920年)に離婚します。白秋も章子も二度目の離婚です。その後出入りの新聞記者と駆け落ちしするも、この記者もベルリン特派員として章子のもとを去ってしまい、一時、谷崎潤一郎のもとへ転がり込みますがのちにまた香々地へ帰ります。故郷へ帰ったものの、既に実家は没落し、江口家は養子の代になっていました。別府の「銅御殿(あかがねごてん)」に柳原白蓮を訪ねてしばらく身を寄せたあと放浪、西国巡礼の帰途大分市松岡の淨雲寺や木の上の少林を訪れています。大正10年(1921年)京都の大徳寺に入ります。2年後に一休寺の住職林山大空と三度目の結婚をしますが、2ヶ月後には出奔。
 そのころの歌に、人間を枯れ木とおもふ吾ゆゑにこの山住みをさみしとはいはじ その後、大徳寺の僧・中村戒仙と恋に落ち同居、昭和5年(1930年)10月戒仙と結婚するも、禅僧は妻帯できないので章子は寺から一歩も外出できない生活が続きます。このころから精神を病み京都帝大病院精神科に入院、早発性痴呆症の診断を受けます。一ヶ月で退院し、詩集『追分の心』出版。1933年(昭和8年)大法要の時、章子は真っ裸で表に飛び出し木の下で座禅を組んだといいます。その後、脳溢血で半身不随となり、昭和13年(1938年)に離婚後卜部鉄心と同居、以降脳出血をくり返します。
 京都から再び故郷香々地に帰ったときは、身も心もずたずたになっていました。章子終焉の部屋は土蔵でしたが、ここは座敷牢のような部屋でいわゆる「食い中気」になり、糞尿にまみれて章子は一人で息絶えました。死因は脳軟化症。昭和21年(1946年)10月29日、雪の降りしきる朝だったということです。終戦1年後、享年59歳でした。枕元には手あかで黒光りした白秋の『雀百首』が残されていたといいます。香々地には章子の歌碑が建てられています。
       
 ふるさとの香々地にかへり泣かむものか生まれし砂に顔はあてつつ  江口章
 昭和53年(1980年)10月、大分県民文化祭で『白秋を恋した女・江口章子』(中沢とおる作)が公演されました。
                (「おおいた文学紀行ー香々地町」を参考にしました)