Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

最後の徳川将軍・慶喜

15代将軍・慶喜


天保8年(1837)9月29日、水戸藩徳川斉昭の7男として出生。幼名七郎麿。こどもの頃は悪ガキで弘道館では馬術・弓術などの武術は喜んで修行したが勉学は苦手、読書となると大あくび。  
 11歳で一橋家を相続し、19歳で結婚。慶応2年(1866)、30歳の時に15代将軍に就任したものの翌年の12月王政復古、のちに鳥羽伏見の戦い薩長軍に破れ大坂から江戸へ敗走、その後水戸で蟄居。この辺の緊迫した成り行きはドラマ「篤姫」で詳しく描かれていた。天璋院慶喜へのアドバイスや苦渋の選択をせざるを得なかった慶喜を、平 岳大(平幹二朗の息子)が、眉間に皺を寄せた苦悩に満ちた陰鬱な表情で旨く演じていた。「薩長に負けて江戸に逃げ帰った最後の将軍」として、後世、慶喜の評判はサッパリだが、徳川家をつぶした責任と悲嘆で切腹するなどというマイナス志向は取らず、何と徳川15人の将軍の中では最高齢の77歳まで、江戸・明治・大正の三代をしたたかに生き抜いたのである。 

大政奉還後、慶喜は世を忍んで暮らしていたが(写真右)、明治2年(1869)9月、謹慎御免となって静岡へ移り住んだ。慶喜は幕府をつぶした張本人だとして旧幕臣から恨みを買っていた。いつ暗殺されるかもしれないと恐れた慶喜は、夜寝るときには、側室のお幸とお信と3人でYの字型にやすんだという。頭を中心にしたのか足先を中心にしたのか分からないが、賊が侵入したら誰かにぶつかり目を覚まし、逃げる余裕がができるからだったが、幸い暗殺の機会はなかったようだ。将軍職を降りて謹慎生活から静岡での暮らしの頃はいわば〈サンデー毎日〉の生活である。もともと好奇心の強い慶喜は暇をもてあまし、趣味に没頭した。中でも写真は撮影・現像・焼き付けをみんなこなし、あちこち旅行をしては土地の風俗風景を写し、写真コンクールにもたびたび入選。そのほか乗馬(写真左はフランス式軍装の乗馬姿)囲碁・油絵・フランス語・サイクリング・狩猟・投網・釣り・車・刺繍・工芸・陶芸・将棋・能・書・俳句・日本画等々、和歌は生涯に5000首も詠んだというから恐れ入る。「何が将軍だい、何が王政復古ダーイ。閑じゃ閑じゃ、遊んでやるー!!」と、開き直った慶喜像が見えてきて面白い。

 天璋院篤姫徳川将軍家に輿入れをしてから、江戸城無血開城までに深く関わった将軍家定・家茂・慶喜の人物像のほんのサワリを見てきたが、これから最終回までのドラマ「篤姫」はどのように展開するのだろうか。

 青壮年期は相当の酒豪だったが晩年は節制し、薬草を酒に浸した保命酒や少量の白ワインをちびちびやった。和食中心で外出や旅行は自家製弁当持参。独自の呼吸静座法や150本の弓を引くのが日課など、運動と食事に気をつけ、ストレスを溜めない日常生活の工夫などで長命を保ったのである。
 一橋時代と将軍時代に10人の側室を侍らせて子作りに励み、24人の子をもうけている(子の数では11代家斉さんの57人には及ばないが)。ただし、将軍家の子どもの早死にが珍しくなく慶喜の子24人のうち、死産2人、早世9人だった。
将軍最長の77年の生涯で多くの子をもうけたのは元気だったからに違いないが、いずれ世が変わったならばその時には徳川家の捲土重来と、種まきを怠らなかったのかどうか…。
(参考 『徳川将軍家15代のカルテ』篠田達明著・新潮新書、『徳川400年の内緒話』徳川宗英著・文春文庫)