Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 懐かしの“耶鉄”

   
お盆の帰省の途中に寄った耶馬渓町の食堂で、注文したざるそばが出てくる迄に店にあった写真集『郷愁のローカル鉄道耶馬渓線』をふと手に取ってみました。以前別府の書店で買って目を通したものと同じものですが、山国川を隔てた向こう岸にある旧耶馬渓線線路(現在はサイクリングロード)を眺めながらこの写真集を見ると、高校3年間を耶馬渓線で通学したことが懐かしく思い出されました。当時の大分交通耶馬渓鉄道は、中津市下毛郡の人々には“耶鉄”の愛称で呼ばれていました。高校3年間の通学で利用した列車は、下の写真のように、気動車が引っ張る5両ぐらいの木造の客車でした。これは、中津市への通学や通勤客の多い朝と夕方の便だけです。
       
朝6時16分に守実温泉駅を出発した中津駅行き上り列車は、乗客の多くなる羅漢寺駅で長い客車(50人乗りぐらい)を連結し一路中津へ向かいます。毎朝、中津駅手前の八幡前駅では満員になりました。帰りの5時16分中津駅を出発した守実温泉駅行き下り列車は上りと同じ編成の木造列車で、羅漢寺駅で長い客車を切り離します。下郷駅を過ぎると高校生は自分だけとなって、話し相手もないので眠くなることしばしばです。つい眠り込んでいると、車掌さんが起こしてくれたものです。車掌さんは私がが宇曽停留所で毎日乗降するのを、ちゃんと覚えてくれていました。
 この朝夕通勤列車には冷暖房が全くありません。まだ暗い冬の朝、乗り込んだ客車のガラス窓には真っ白く霜の結晶がびっしりで外は見えません。ハーハーと息を吹きかけて霜を溶かすと、外の杉山や田圃も霜で真っ白に覆われているのです。通学時間は往復約4時間なのですが、朝は“赤尾の豆単”や“けら ○ けり ける けれ ○ ”などと暗記物の勉強をして(いるフリをして)いました。帰りは、最後尾の小さな客車に集まった中津東高生などと一緒に「有楽町で会いましょう」や「錆びたナイフ」などを放歌高吟したり、学生帽に卵の白身をつけて固めたりしてイキがっていました。中にはタバコをやる者もいましたが、大方の高校生は噎せていました。耶鉄の終点一つ手前から通学する私は、通学時間と距離の多さでは学年1番でした。後にも先にも学年で「1番」というのは(エヘン)このことだけですが。
 通勤通学時以外の12便はガソリンカー、ディーゼルカーが運行しましたが、これらには「かわせみ」[せきれい」「かじか」「やまびこ」など、いかにも名勝・耶馬渓にふさわしい愛称が付けられていました。

大分交通は昭和20(1945)年の終戦の年には蒸気機関車7両、気動車5両、客車16両、有蓋貨車5両、無害貨車43両の計76両を有していました。昭和20年代の中頃まではSL機関車が全盛期でしたが26年からはディーゼル機関車が本格化します。我が家の真下を通る線路は少し上り坂のカーブで、宇曽停留所を出て終点守実温泉に向かうドイツ製のSLが黒煙を吐いて今にとまりそうに喘いでいたのを思い出します。
  


耶鉄の歴史 
耶鉄の建設の足取りを見ると、全3期の工事で中津〜守実間全線が大正2(1913)年から大正13(1924)年にわたる工事で完成されました。(以下、冒頭の耶鉄各駅名図参照)
第1期工事(中津ー樋田〈のち洞門〉)14.3キロ
大正2(1913)年5月1日〜11月30日、営業開始12月26日。
牛馬が汽笛にタマガルから反対
本来は平野部の万田から佐知のルートが決まっていたが、ここは山国川沿いの肥沃な農地で、鉄道が通ると黒煙で農作物が汚れるという心配や、牛馬が汽笛に驚いて暴れ農作業ができなくなるといった不安が多く、地元民の賛成が得られません。やむなく沖代平野を横切るコースに変更されて建設されました。ところが、八幡前に至る途中の古城の坂は1000分の16パーセントの勾配です。満員の乗客を乗せた列車が登り切れずよく立ち往生し、重量を減らそうと何人かの学生が列車を降りて、八幡前駅まで線路を歩いたそうです。
第2期工事(樋田ー柿坂)10.5キロ
大正3(1914)年2月〜11月30日、営業開始12月11日。
日本一曲がった第2鉄橋
1期工事に比べて距離が短いのに工期が長くかかったのは、2つの鉄橋と3本のトンネル掘削の難工事があったからです。中でも津民ー柿坂間の第2山国川鉄橋(110メートル)は対岸の地形の関係で、上り坂のカーブとならざるをえませんでした。この鉄橋のゆるやかなカーブは渓谷美とあいまってのちに耶鉄の名所となりましたが、列車の乗客はキーッと車輪とレールが軋む音にはかなりスリルを感じたものです。   
  
第3期工事(柿坂ー守実温泉)11.3キロ
大正12(1923)年12月30日(『写真集 郷愁の耶馬渓線』では大正11年11月15日)〜13年5月29日
営業開始6月16日
険しい地形の難工事
この間は急峻な山々が蛇行する山国川に迫る険しい地形のために、工期も最も長く多額な費用を要しました。3本のトンネルと2本の橋梁の工事は当時の技術や機械力では大変なものであったと思われます。
こうして11年間にわたる耶鉄の全線開通迄の努力によって、それまで馬車や人力のみだった物資の運搬や輸送が一気に便利になり、沿線一帯はにわかににぎわいはじめ、駅周辺には倉庫や旅館が建ち並び人の往来と物資の集散が見られるようになったのです。当初から耶鉄は下の写真のように、貨客混合の列車だったわけです。耶鉄全線19の駅の中で貨物の積みおろしののために長く停車する駅もあるため、守実温泉から中津までの36,1キロを貨客混合列車の場合、運行時間はゆうに2時間を超えました。トイレに行きたくなったら長く止まる駅で急いで用が足せませたから、かなりスローライフだったのです。
   
創業当時の耶鉄の軌間(レールとレールの幅)は762ミリでしたが、日豊線の列車が乗り入れられるように軌間を1027ミリに拡張する工事が1年3ヶ月の工事の末に、昭和4年8月の完成しました。このために、昭和30年からは紅葉期間中に国鉄の「紅葉やばけい号」が乗り入れ、36年からは「新緑やばけい号」も走り耶馬渓地方の観光浮揚に大いにあずかりました。これはだんだん増えてきたバス利用者に対抗する対策でもあり、観光客の直通列車は昭和44年まで続いたようです。しかし昭和30年代の後半から始まったモータリゼーションによるマイカーの普及や、貨物のトラックによる輸送の拡大に加え過疎化による人口減による乗客数の減少などは歯止めがきかず、ついに昭和43年10月に貨客混合列車の運転中止、貨物取り扱い廃止となります。そして46年9月30日、惜しまれながら野地ー守実温泉間25,7キロが廃止されました。この日、保育園通園のために洞門駅から次の羅漢寺駅までの定期券で何週間かガソリンカーに乗った息子と共に、最後の列車を見送ったのを思い出します。昭和50(1975)年9月30日、残り中津ー野地間10,4キロも廃止されてついに耶鉄全線廃止となり、62年間の県下私鉄最後の耶馬渓線・36,1キロの歴史を閉じました。
(参考 『写真集 郷愁のローカル鉄道 耶馬渓線』大分合同新聞社、『消えた耶馬の鉄道』耶馬渓鉄道史刊行会。 写真はすべて前者より転載)