Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 山国川氾濫の爪痕

7月3日の集中豪雨は福岡、熊本、大分の3県の九州北部を襲い、川の氾濫や崖崩れ等をテレビ映像によりリアルタイムで知ることができた。さらに後片づけのいとまもなく、14日にはさらなる豪雨が追い打ちをかけて、その模様もつぶさに映像で見ることができた。  
 中津市山国町の実家の法要に参るべく、前日の7月22日に中津から山国川の上流に向けて、沿線の国道212号線を遡っていく途中に見えた流域の風景は、まさに、「今までに経験したことのない」流域集落の目を覆うばかりの惨状であった。
   
耶馬渓の観光みやげ品店や味処が並んでいた「やばの駅」はすぐ下の山国川の氾濫で内部が流され、その片づけが進んでいたところへ14日のゲリラ豪雨で再び濁流に襲われてしまったという。前を通りかかったときは、誰一人作業をしている人を見かけなかった。
 耶馬渓町の津留という集落にある比較的新しいコンクリート橋も、両岸のつけ根の部分が折れて流されていた。
      
 対岸の6,7戸の集落はサイクリングロード(旧耶馬渓鉄道跡)以外には交通アクセスがなく、日常の生活に難渋していると思われる。
   
     崩落した山国川第2鉄橋
 昭和46(1971)年9月まで営業していた旧耶馬渓鉄道の、津民駅と柿坂駅の間の鉄橋である。鉄道廃止後はサイクリングロードとして観光客に親しまれていていた。短い長さをかなり急な曲線となった、全国でも珍しい湾曲鉄道として観光スポットであった。上流川から見るとカーブしているのがよくわかる。橋脚が折れ、無惨にも半分は流されてしまった。
   
 曲がった鉄道ということからか、橋の近くに設置された案内板に「近代土木遺産」と書かれていた。鉄橋を走るディーゼルカーが水面に映っている。
   
 この耶馬渓鉄道に乗って中津の高校に3年間通ったが、この鉄橋の上をスピードを落として通るとき、車輪とレールがキーキー激しく軋んだものだった。(当ブログの2009/8/19 「懐かしの耶鉄」に詳述)
   
        無事だった大勢橋
国道212号線から実家のある集落、大勢(おおぜい)に通じる生命線といえる橋。洪水は橋の欄干を越えて暴れまくったが、幸いにも流されなかった。洪水が引いたあと、“4トン以上の車は通行禁止”の標識がたっている。橋のたもとのバス停は濁流で壊れ、大勢橋竣工記念碑は台座だけ残っている。
   
    
         流された群仙橋
 桜並木の下を通って6年間三郷小学校への登下校で渡った橋も、すっかりなくなってしまった。学校からの帰り道、欄干から川をのぞきハエやイダやギュギュのいることを確かめて、帰りざま釣り竿を担いで橋の下まで跳んで行ったものだ。
 この水害で、大勢集落では一番川に近い家の1軒だけ床上浸水の被害があった。
   
 実家の被害は2件、一つは何週間か前に敷設したばかりの下水管の埋め土が鉄砲水ではがされてしまい、もう1件は、前の畠の石垣が崩れてしまったことだ。幸い、プレハブの古倉庫は損傷していない。
   
   
今回の水害の爪痕がこんなにもひどいとはまさに一見にしかずであったが、個人の被災民家の惨状にカメラを向けることは忍びなかった。国は激甚災害指定を検討しているということだが、もはや検討段階でもあるまい。日本列島だけでなく、洋の東西を問わず、まさに災害は「忘れる間もなくやってくるもの」である。
   
川辺の合歓の大木に、根本から半分以上の高さまで流木やごみが巻き付いていたが、いただきにはあえかに優しいピンクの花が今を盛りに咲き誇っていた。

 ふるさとの水清くあれ合歓の花