Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 肥後守と竹の竿竹


いきなり物騒な刃物の写真ですが、これは「肥後守」といって折り込み式の小型の小刀です。まあ、50代以上の人、特に男性は一度は使ったことがあるのではないでしょうか。筆箱の中に入れ、学校で鉛筆削りに使っていましたし、竹とんぼや杉の実鉄砲を作ったりして遊んでいたものです。それほど高価なものではないので二丁買って、一丁は筆箱に、もう一丁はいつもポケットに入れていました。子どもの頃外で遊ぶときは、そこら辺の庭木の枝をなんちゃなく切っては、よく叱られました。自分で砥石で研いで、いつもぴかぴかに光った肥後の守を大事に使っていました。研ぐのがおもしろくて、母親から鎌や菜切り包丁や出刃包丁の研ぎは任されていたものです。
 「肥後守」のルーツはどうもはっきりわかりませんが、産地は刃物の町・兵庫県三木市です。明治後期に製造が始まりますが、なぜ播州で作られたのに「肥後守」なのかですが、はじめに九州旅行で立ち寄った肥後から持ち帰った刃物が肥後某とあり、なかなかいい切れ味だったことから肥後守清正にちなんで命名されたらしいということですが、さて。明治43(1910)年に商標登録されます。手持ちの「肥後守」には「商標登録 肥後守定カネ駒」という銘があります。現在は、三木市の永尾駒製作所のみが製造しているそうです。ネットで調べてみたら、なんと桐箱入りの高級品が1万円でネット販売されています。中高年のマニアやコレクターに人気があるそうです。昭和25(1950)年頃から文房具としてたくさん出回りますが、昭和35(1960)年に選挙の三党首演説会中の壇上で、浅沼稲次郎社会党党首(当時)が山口乙矢少年に刺殺された事件から、“刃物を持たない運動”が展開されます。これを受けて学校では刃物の使用が禁じられ、各教室に鉛筆削り器が備えられます。いわゆる“昭和の刀狩りです”。いま、夏休み工作教室とか何とかいって、元気なお爺さん達から子どもたちが竹とんぼや竹馬造りを習っていますが、あのお爺さん達はまさに「肥後守」世代です。
 小学校低学年の時1月14日の「どんどん焼き」の篠竹きりに「肥後守」を持って仲間と颯爽と竹藪に出掛けました。帰る間際に担いだ篠竹の束の重さによろめいて、最後に切った篠の切り株に右手を突いて右の薬指の根本にザクッ!!。どくどくとほとばしる血潮におののいて帰ると、ばあちゃんが前掛けを裂いて応急処置をしてくれあとで医者に連れて行って貰いました。その後、肥後守は取り上げられ、当分の間使用は御法度になりました。「ばあちゃん、小刀で切ったんじゃねえ、篠の切り口で切ったんじゃき、小刀は使ってんいいじゃろ」と懇願したが、許されませんでした。今もその傷跡が残っています。
     
 ときどき「サオヤー、サオダケー」というテープを流した車が通ります。どれも金属製のぴかぴか光った物干し竿です。我が家の物干し竿はすべて正真正銘の、タケカンムリの竿です。「竿」は「竹」で「干す」という字なのですから、市販の金属製の竿竹はみんなインチキです。別府は竹が豊富にあり、その気になれば手に入ります。たまたま我が家のすぐ裏が竹藪(管理不十分な国有林?)で、増えすぎると道まで筍が生えてきて困るので、時期には筍も採ります。豆やキウリの手も裏山の竹を使います。竹を竹材として伐るのは秋の10月頃がよいのですが、我が家の3年前に伐って作った物干し竿はそろそろ3本ともひび割れが入り、蒲団など重いものを掛けるとヤバくなったので、昨日3本手頃な、できるだけ真っ直ぐなものを伐ってきました。本来は火に炙って油ぬきをするとよいのですが、外でやたら火をたけないので節削りをして、きれいに洗うだけとしました。節削りに威力を発揮するのが「肥後守」です。竿を廻しながら全部の節の角を丸くしていくのですが、4、6メートルの竿が3本ですから結構時間が掛かります。写真の黄色いのは3年使ってひび割れができた古い竿です。あとの3本は今から愛用の「肥後守」に頑張って貰って、節削りです。