Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 11月8日、県立図書館に「府内藩 浜の市に集う人々」という講演を聞きに行った。講師はお茶の水女子大学准教授の神田由築(ゆつき)さん。まだ30代前半の女性の新進気鋭の近世史研究家で、近世芸能史が専門。講演は「府内藩記録」の「浜の市」に関する部分を精細に解読し、文化10年(1813)年に描かれた「濱の市細見繪圖」を示しながら、由原八幡宮放生会の時に開かれた浜の市の賑わいの様子を話されたものである。
 鎌倉時代に始まったとされる浜の市は、藩政時代は府内藩の管理の下に盛大に行われた。開市期間は8月11日から9月朔日までの20日間(現在は9月14日から20日まで仲秋祭)であった。御旅所(現生石)で行われたこの祭礼市は、讃岐金比羅の金市、安芸宮島の舟の市と並ぶ西日本の三代市のひとつで、浜の市開催中は城下の商売はこの市以外では固く禁じられたために、さまざまな商い人が集まって大変な賑わいだった。毎年7月中に町奉行が小屋割りを決め、火消し番所、舟番所等の警護の番所や医師の詰め所などが、藩権力で、いわば強力な行政指導の下に設営されている。商人の仮小屋が毎年の小屋割りにしたがって町筋を形成し、元禄14年には仮小屋の軒数が282軒に、18世紀半ば頃までには「東中横町」「西中横町」「新小路」など町名がつけられるほど増えていた。「寄目録」という浜の市の諸売買高記録によると、初めのうちは府内城下の商人が仮小屋で商売をするものが多かったが、だんだん肥後、大坂などから、いわゆるよそ者が入領するようになった。商いの種類も古物商・呉服物・小間物・金物・銘酒・合薬・焼き物などのいわばかたいものを仮小屋で商っていた者から、文政期以降になると見せ物・針売り・按摩療治・覗き見せ物・入れ歯細工・易考など、香具師(やし)の辻売り商売的なものに変わっていったという。
 市では毎年芝居小屋がかかりにぎわった。、初期は「大芝居」「竹田代(たけたがわり)芝居」「於山地(おやまぢ)芝居」という三カ所の固定した芝居小屋があったが、だんだん「押掛芝居」「小見せ物」「曲馬芝居」が進出してきた。
 このように商売も人も芸能民も、府内領だけの範囲から江戸、大坂へと広域化していき、芝居や商いの内容も変質していった。
「浜の市」については何も知らず〈しきし餅〉を買うぐらいだったが、今日の話は”目から”うろこものだった。

 先般の平成の「チャレンジ!大分国体」は、一体どれほどの人と物が動き、時間とお金がかかったのか知らないが、大分県にとっては一大イベントであった事は間違いない。江戸時代の「浜の市」も、府内藩にとっての、年に一度の一大イベントであったのであろう。
それにしても、府内藩記録にはよくもこんなに詳細な記録を残したものだと驚嘆する。どこの誰が何の商いをし、何ヶ月滞在し、泊めた宿主はどこの誰だとか、芝居の売買高が銭いくらや、入り船数が何隻とか、藩は人・物・金の動きを総合的に管理するため精細な記録を取り、こんにちまで残っているということに驚き、その重さを思う。データ管理が江戸時代よりずっとしやすいこんにち、大分国体の総括資料も詳細な物まで公文書館に多分、残るであろう。

 話は変わるが、14日付新聞によると、大分県の義務教育課が所管する教員採用試験の答案用紙の保存期間が30年間(〜05年度)→1年間(06年度)→10年間(07年度)→1年間(08年度)とめまぐるしく変わっているという。答案用紙はまぎれもなく公用文書だ。今回の不正解明の妨げの一つは、2年前の答案がすれに廃棄されていたことにあった。
保存期間がこれほど朝令暮改的に変更になる公用文書が他にあるのだろうか。これはもう証拠隠滅罪だ。当時の役人は記録保存についての必要性を府内藩記録に残してあるかもしれぬ。県は府内藩に公文書記録のイロハを学ぶべきではないか、同じ行政を預かるものとして。
今日の日記のエンドを、こんなにりきむつもりはなかったのに…。ああ、寝つきが悪そう。