Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 卯の花

 今や、近くの小川の岸辺あたりの白い卯の花が真っ盛りで、日暮れ近くになってもそこだけ明るい、まさに「卯の花明かり」の情景が見られます。枝を折ると中はうつろになっているので「ウツギ(空木)」ともいいますが、ウツギの花は旧歴の4月のちょうど今頃に咲くので、旧暦四月を「卯の花月・卯月」とも言っています。

卯の花は白色5弁の小さな花が垂れ下がって咲きますが、同じ白色でも、タイザンボクハクモクレン、白牡丹のような豪華さはありません。
ステージを終えて卯の花明かりかな  古希漢

卯の花は、品おとりて、何となけれど、咲く頃のをかしう、時鳥の陰にかくるらむと思うふに、いとおかし」

と、『枕草子』の評価もあまり芳しくありません。気品がなくてなんてこともない花だが、時鳥が隠れているかもと思えばまあ、趣があるが。と、あまりパッとしません。ところが、なぜか、万葉の昔から時鳥とタッグを組んで結構歌われているんですねー。


卯の花の散らまく惜しみ霍公鳥(ほととぎす)野に出山に入り来鳴き響(とよ)もす」(『万葉集』)
「時鳥我とはなしに卯の花の憂き世の中の鳴きわたるらむ」(『古今集』)

さて、「男声合唱のための唱歌メドレー『ふるさとの四季』」の中の、おなじみの「夏は来ぬ」(佐々木信綱)の歌詞


「うの花のにおう垣根に 時鳥 早もきなきて 忍音もらす 夏は来ぬ」

を合唱練習するとき、いつも引っかかるフレーズがあった。はたして人里の「卯の花垣に時鳥が来るか」、さらには「テッペンカケタカと高らかに鳴かず、≪忍び音≫とはどういう声か…考えれば考えるほど嘘っぽいと思えて、情感豊かに歌うことなどできっこない。ところが、いろいろ調べてこの間の事情がわかりました。

「山里は卯の花垣のひまをあらみしのび音もらす時鳥かな」(加納諸平)

という和歌がありました。この歌の「ひまをあらみ」が何のことかわかりませんが、信綱先生の「うの花のにおう垣根に…」は、この歌のいわば本歌取り(パクリじゃないよ)ということですね。いにしえも今日も、田植えの用意が始まる今の時期には、卯の花ホトトギスはセットで詩歌に詠まれたということです。
卯の花垣に時鳥はきたか来ないか、忍び音はどんな鳴き声かの詮索は、詩人にとっては無益なことなのです。詩人は感性と想像力の世界で勝負するのですからね。信綱先生はバードウオッチャーや鳥類学者ではなく、万葉の世界に詳しい詩人なのですから。
ちなみに、今年は1週間ほど前、僅か二声のホトトギスの鳴き声を聞きました。
卯の花は一見地味な花ですが、よく見れば可愛らしいし(左下写真)、人工石垣の僅かのすき間に生きるたくましい根性花なのです(写真右下)。まるでブーケのようです。
 
卯の花の夕べの道の谷へ落つ  臼田亜浪
卯の花の咲く頃に降り続く雨を「卯の花腐し(うのはなくだし)」といい、夏の季語です。
旅の髪洗ふ卯の花腐しかな  小林康治
散歩中、傍らの卯の花の小枝を折ってみたら、中は空洞でした。花に鼻を近づけてみました。全く匂いはありません。えっ「卯の花の匂う垣根に…」は嘘か?「におう」は古くは視覚の面での表現に用いられたが、後に嗅覚表現が中心になったと古語辞典にあります。「青丹よし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」(『万葉集』)の匂うと同じで、「美しく映ずる、きれいである」の意でしょう。文部省唱歌「朧月夜」の「…夕月かかりて におい淡し」の「におい」も同じように夕月の色の視覚的美しさの表現でしょう。
※ 2009年5月16日の当ブログで、「卯の花ホトトギス」の記事を書いています。今日の文はこれとのダブりがありますが、ご海容下さい。