Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

月光の夏

 昭和20年(1945)5月、吉岡公子は鳥栖国民学校の5年2組の教師として教壇に立っていました。教師といっても高等女学校を終えたばかりの、お下げ髪をリボンで結んだ18歳の「代用教員」でした。既に日本の敗色は濃く、本土の都市は連日米軍機の空襲に晒され、沖縄は「鉄の暴風」で既に焦土と化し、日本陸海軍は米軍艦船に対し戦史上例のない特攻作戦をとり、特攻隊員たちが連日爆弾を抱いた機で出撃していました。その日、公子は校長室にすぐ来るように呼ばれました。何事かといぶかる公子の前には、二人の二十歳ぐらいの若者が立っていました。「自分たちは目達原(めたばる)基地の特攻隊の者です。明日、発ちます。時間がありません。お願いであります。ピアノを弾かせてください。死ぬ前に一度思いっきりピアノを弾かせてください。」二人は、おおかたの学校にはオルガンしかない時に、珍しく鳥栖国民学校にはグランドピアノがあると聞いて、12,3キロの道のりを長崎本線の線路づたいに走るようにやってきたといいます。長身の、上野の音楽学校の学生だったという青年が、公子が差し出した楽譜・ベートーベンのピアノソナタ第14番嬰ハ短調「月光」第1楽章を弾きはじめます。闇の雲間からもれる月の光のように、時にほの明るく、或いは暗く、沈鬱に流れる調べは熱情を潜めてリフレインし、やがて静かに高揚する。隊員はときおり祈るように瞑目し、ひたむきに弾き続けます…。
       
 これは、『月光の夏』(毛利恒之著・講談社文庫)の冒頭の部分です。この本、今日Yさんが貸してくれたもので、帰ってから一気に読みました。著者が「月光の曲」を弾いた特攻隊員の話を、もと国民学校教師の上野歌子さんから聞いた話を元に小説化したもので、ピアノを弾いた隊員は誰か等の取材過程はラジオドキュメンタリー『ピアノは知っている』と題してKBC九州朝日放送でも伝えられました。また、映画化も進められ、「映画『月光の夏』を支援する会」や、鳥栖市、鹿児島県知覧町などの支援カンパや助成金などによって作成・上映されました。
       
 ところで、この『月光の夏』の朗読劇が7月27日に、別府ビーコンプラザで上演されることになりました。小説、ラジオドキュメンタリーの表現とはまたひと味ちがった『月光の夏』が上演されるだろうと楽しみです。
 8月になると、『私兵特攻』(松下竜一著)や『指揮官たちの特攻』(城山三郎著)などを読み返しますが、『月光の夏』の風間森介のような、玉砕を果たさずに帰還した隊員の心理にについてはこの小説でもっとも心を動かされました。かつて知覧の特攻平和会館で見た郷里の近くの隊員の遺書の内容や、日出の回天神社、また、別府大仏跡の「一生庵(いっせいあん)鎮魂の部屋」内の海軍飛行専修予備生の遺書・遺品等を今、思い出しています。
 寄せ書きに雄々しき言葉残せしも遺影に見ゆる幼さ哀し