Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

『西遊雑記』より

         

きのう、県立図書館で興味深い本を見つけた。
江戸時代(1726年)、備中(いまの岡山県総社市)生まれの地理学者、古川古松軒という人が宇佐神宮やその近隣のことについて『西遊雑記』に次のように書いている。(現代文に訳してみた)
「…宇佐八幡宮四日市より行く1里余りは道幅が広い。よい街道だが、辺鄙で休む茶店もなく寂しい道である。さて、宇佐八幡宮は世に知られた歴史の古い所。さだめしよい所だろうと思ったがこの地も案外僻地であって、御社のある土地は低い平地で、特別にいい風景があるでもなく、面白くもない所だ。
御社宮はたいそうよい普請であって、何の神、何の仏といって小社小堂数多くあって境内も広々してはいるが、千年も経たところとは見えない。
少しは町家もあるが、まこと田舎町で茅葺き屋根だけである。すべてここらあたりの風俗は、百姓の他には何の仕事もないような辺鄙なところなので、伊勢の山田のように参詣の人をつかまえてはうそを言って騙し、銭をほしがる風俗であって、人の性質もよくない所である。…この近辺は豊後の日田御代官所肥前の島原松平飛騨守御領所と入りまじっている所で、八幡宮の社地社領は島原候の御支配である。…豊前豊後の国界は宇佐より1里半南にあるれん木村という所で、豊前肥前島原領、豊後は立石木下御氏知行五千石である。豊後国豊前より大国というが、風土は劣っていてよくない。ちょっと田舎に入れば豪宅と思われる百姓家は一軒もなく、白壁の土蔵などは遠くからも見たこともない。柿の木、橘、きんかん、ゆずなども見かけない。人物言語も中国筋とは甚だ劣っていて、田舎の山奥へ行くと草鞋も履かず、外より帰っても洗うこともなくそのまま床の上にあがる。食物も米を食うこともなく粟の飯が上食で、寺院里正(注・里正は庄屋のこと)にあっても日常の食事は粟で、五節句などのときに米の飯を食べる。これらのことで万事の風俗を察するべきである。周防長門から豊後日向大隅などへ商人の入り来る所でこの者たちが旅宿で会ったときは、最早日本の地へ帰ろう、とたがいに冗談を言って笑うということだ。…
 宇佐神宮は期待はずれ、おもしろくもなんともねえ、辺鄙な所で人の性質もよくない、はだしで粟が常食、ここは日本じゃない…よくも言ってくれたもんですねえ、コショウより辛い古松軒さん。
全国の八幡社の総本山、初詣客県一、それに世界遺産申請中の宇佐神宮さんもかたなしだ。宇佐、近郊の方々、江戸時代のこととはいえ、何と思われますか。
このあと古松軒は日出、頭成(かしらなり・今の豊岡)、別府と歩いて書いていて、別府温泉については当たり障りのない紀行文であるが、貝原益軒の『豊国紀行』ほど詳しくは書いていない。
『西遊雑記』は58才になってからの紀行であり、その後、東日本を回り『東遊雑記』も書くという健脚ぶりで、両紀行とも、挿絵も描いている。見たまま、ありのままを記述したものとして解釈すれば貴重な文書である。
紀行文は誰も訪れた土地をほめこそすれあまりけなしたりはしないものだが、多くの紀行文に接したわけではないのでよくはわからぬが、これほどケチョンケチョンにくさした文を他に知らない。