Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 野上彌生子 展

大分県先哲史料館の秋季企画展 妻と母と作家の統一に生きた人生 ー 野上彌生子の百年 ー という、おそろしく長いタイトルの展示会を見に行った。これは、『大分県先哲叢書 野上彌生子評伝』の刊行を記念する企画である。

野上彌生子ー臼杵ーフンドーキンー『海神丸』『迷路』『秀吉と利休』ー夏目漱石ー長寿…など、野上彌生子については恥ずかしながらこれぐらいの連想ゲーム的知識しか無く、作品に至っては高校の時に読んだ『海神丸』しか内容を知らない。難破した漁船で人肉を食おうという、実話に基づいた小説『海神丸』。若いときにこの作品を読んだときのショックを思い出す。
 展示では彌生子の62年間にわたる119冊の日記の中から、妻として、母として、作家として日々の思いを綴った直筆の多くを見ることができた。その中の彌生子の母としての顔を見せる次のような一文がある。

親愛なるSー
 もしことが順序よく運びさへすれば、あと一月とたたないうちに再び学生として海外に赴かうとしてゐるあなたを思うて母さんはなにか胸いっぱいになってゐます。もう二十七にもなった強健な若者のあなたに今更なにを云ふことがあらうか。無事に元気よく勉強して来るやうにと云ふのみで離別の言葉は十分な筈ですが、しかし母さんの溢れあがる感情にはただそれだけの挨拶では到底尽し切れないものが満ちてゐます。これから二年間遠く欧州と東洋の果に別れ住んで顔を見ることも声をきくことも出来なくなるあなたに、この機会にあれもこれも話しておきたい気がします。(後略) (「一つの注文ー遠くイタリーへ学ばんとするSへー」『学生と教養』)

これは長男の素一がローマ大学へ留学する際の文章であるが、子離れが出来ない母としての、我が子への愛情が溢れている。
小説家としての彌生子は新聞をよく読み、政治や社会の動きに深い関心を寄せ、戦争へと靡いていく世の中を深く憂えていることが日記にも書かれている。次は1937(昭和12)年元旦の『東京朝日新聞』の「新春の言葉」欄に掲載された「一つのねぎごと」という文章である。

 暮に或る雑誌社から例の往復ハガキであなたの憂ひとすることは何か、また悦びとすることは何かといふ質問を受けたので、ほんたうに心配なことを心配だと云へないこと、悦ぶべきことを悦ぶと云へないことだと返事をした。
 今年も私たちの日本はかう云ふ状態から脱しきれないばかりではなく、ますます重いえがらっぽい空気を呼吸しなければならないであらう。(中略)序でに神聖な年神さまにたった一つお願ひごとをしたい。(中略)どうか戦争だけはございませんように。

この記事が出た7ヶ月後、日本軍は盧溝橋で中国軍と交戦し日中戦争へ突入していき、彌生子が恐れた戦争となったのであるが彌生子は99歳までの生涯、強い反戦思想の持ち主であった。
1971(昭和46)年、86歳の時に文化勲章を受けるが、特別うれしくもなかったようだ。文化庁から、今年の受賞者に選ばれているが受けるかどうかと事前の問い合わせがあったときの気持ちを、日記に次のように綴っている。
 

ただ年をとっても無事にしてゐるだけで、その資格があるかどうか自信はないが、下さるものはなんとやらで― と返事する。(中略)もとよりわるい気はしないが、特別にうれしくはない。いつもまた煩はしい事が出来たとの感じ先だち、また十一月三日の授賞式に出るとすれば、やがて帰らなければならないのも、予定はすっかり変更することになって困るうへ、あの勲章を頸からぶら下げる姿は、毎年誰のを見ても好ましいものでもなかったので、自分の身になるのは厭はしい。スムーズに欠席されるなら、それが一番よい方法である。今の気持ちではそれが一番望ましい。

結局、勲章の受け取りは弟に頼んだが、受賞後、彌生子は勲章を無造作に押し入れの中に入れてあったという。
サルトルノーベル文学賞を蹴ったことを潔しと思った節もある。また、夫の野上豊一郎の文学の師である夏目漱石に彌生子も小説原稿を見て貰って辛口の批評を受けているが、その漱石も、何かの賞か資格を拒んだということをどこかで読んだことがある。彌生子も権威を嫌うという似た考えがあったのかもしれない、とは憶測に過ぎないが。
受け取りを拒むことで起きる反響の煩わしさを思えば、あっさり受け取っておいた方がよかろうという考えで、自分は行かず、弟に行かせたというのが真相だろうか。
 小説、随筆の他に童話を書いたり、「ハイヂ」や「ギリシャローマ神話」なども翻訳しているが、アニメ映画でおなじみの「アルプスの少女ハイジ」を日本に最初に紹介したのが野上彌生子だとは知らなかった。「大分県先哲叢書」の中で取り上げられた初めての女性の先哲である野上彌生子だが、今回はなかなか見応えのある企画展だった。展示を見たあと、図書館で『秀吉と利休』を借りようとしたが、あいにく貸し出し中だった。仕方なくAmazonに中古本(1円也!)を注文した。