Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 『日本のいちばん長い夏』 その1

クマゼミガ早朝から間断なく鳴いている。サルスベリの花が満開である。

この時期になると、‘なぜか’太平洋戦争、とりわけ日本の敗戦の頃の史実を知りたくなってくる。‘なぜか’というと、自分の誕生は真珠湾攻撃の1年前で、終戦は5歳の時であり、‘戦中生まれ’でありながら、戦時体験の思い出がほとんどないからである。しかも、小学校入学が1947(昭和22)年で、学校教育は新憲法教育基本法の下で受けてきたので、開戦から戦争末期、敗戦と続く時期の実体験の記憶がない。それ故にこの間の歴史の事実を知らないままでいるのは、大げさに言えば、生きる上でなんだか落ち着かず、気持ちが悪いのである。勿論、太平洋戦争は中学や高校の歴史の教科書には記載されてはいたが、授業では現代史の時間はきわめて少なく、教える教師も、今思えばなんだか及び腰だったような気がする。
15年前に亡くなった父親は、中国大陸で軍刀を提げた写真だけ残して、自らの体験した戦争のことは何も語らないままだった。書物に頼るほかはない。
去年は阿川弘之の『雲の墓標』、松下竜一の『私兵特攻』、城山三郎『指揮官たちの特攻』などを読み返した。今夏は、半藤一利編の『日本のいちばん長い夏』を読んだ。

奥付を見ると、本書の第1刷は4年前の2007年10月である。今頃読むには遅きに失した感があるが読んでみると、「目から鱗」ものであった。「忘れてはいけないあの戦争」という視点で行われた、当時の戦争体験者による大座談会の記録であるが、終戦時、ある人は前線にあり、ある人は捕虜収容所、ある人は政府の中枢にあったという人たち30人の貴重な証言集でもある。この座談会は1963(昭和38)年6月に、半藤一利の司会で行われた。

1945(昭和20)年7月27日、米・英・中3国によるポツダム宣言が発せられた。この宣言書は条件を呑んで降伏するか、戦闘を続けて国土の荒廃を招くかの選択を迫る最後通牒であった。この頃政府はソ連に仲介をして貰う和平工作をしていたが、ポツダム宣言に対する政府の意思表示は新聞記者の質問に答えるという形で、内閣書記官長(注 現在の官房長官)だった迫水久常はつぎのように振り返っている。

当時は英語を使っちゃいけない時代で、今なら「ノー・コメント」の一語ですむ。そんな気のきいた言葉が日本語にないのだな。非常にぎこちなく「ポツダム宣言は、カイロ宣言(昭和18年11月に発表され、日本に無条件降伏を要求したもの)の焼き直しで重要視しない」と、こういった。ところが重要視云々を繰り返しているうちに「黙殺」という言葉が出てきた。つまりノー・コメントの意味だったのですが、これを外国に報道する場合,gnore(無視する)となって、更に外国の新聞では、日本はポツダム宣言reject(拒絶する)した、ということになってしまった。

3月の東京大空襲をはじめ、主要都市への爆撃で焼け野原になる中、ソ連には和平斡旋依頼を拒否されるという状況下、降伏の決定を渋る日本に決定的な打撃を与える8月6日の広島への原爆投下であった。そして9日の長崎への原爆投下とソ連参戦。ポツダム宣言を即座に受諾しておれば、ヒロシマナガサキはなかったのに、と誰しも思うが、歴史に「もし」はないという。しかし、過去の歴史的検証と、謙虚な反省がなければ未来の平和はない。
次回は、原爆投下について、本書でどのように書かれているかを見たい。