Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 鶴見半島探訪

このところ体調を崩して暫く外出できないでいましたが、25日(日)は楽しみにしていた別府史談会の秋の行事の一つ、「鶴見半島史跡探訪」です。初めての地なのでこれははずすわけにはいきません。予報がはずれ、曇天の下をバスで別府から高速経由で佐伯まで行き、あとは鶴見半島リアス式海岸の細いヘアピンカーブの続く道を廻りました。
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水の子島灯台 は、豊後水道の真ん中にある灯台です。1900(明治33)年に着工、初点灯は1904年ですからそれから今日まで100年以上も、“沖ゆく船の無事を祈って灯をかざ”しつづけているのです。灯台守夫婦の生活が「喜びも悲しみも幾年月」というタイトルで1957(昭和32)年に木下恵介監督、佐田啓二・高峯秀子主演で映画化され、同名の主題歌と共に水の子島灯台は全国区で有名になりました。この歌は当時のNHKのど自慢でよく歌われたものです。1986(昭和61)年には、田中健紺野美沙子主演でリメイク版が製作されました。(こちらは観た覚えがありません。)半島の下梶寄地区に灯台の維持管理員の退息所も建てられましたが、灯台無人化以降、現在は「海事資料館(渡り鳥館)」となっています。ここには灯台員の詰め所の復元室、漁具、灯台の模型などが展示されていますが、圧巻は22年間に水の子島灯台に激突して死んだ62種・550羽の渡り鳥の剥製が展示されていることです。
現在の水の子島灯台の光源は、波力発電と太陽光発電といういわゆるクリーンエネルギーの“ハイブリット発電”で得られているのだそうです。この灯台は「近代化産業遺産」に、海事資料館は「登録有形文化財」に指定されています。

鶴御崎灯台 は九州最東端(東経132度5分・北緯30度55分)に位置する灯台です。海上200メートルの絶壁の上に立っていますが、灯台に行く細い道の手すりの一部が壊れていてそこからちょっと眼下を覗くと、目がくらみかけました。近くのパノラマ展望ブリッジから豊後水道一帯は、文字通り360度の展望です。展望台の下には、旧海軍が明治27年に設置した望楼のコンクリート壁が残っています。ここから豊後水道を監視していたのでしょう。
折から、「鳥羽一郎後援会」のバスツアーが来ていました。鳥羽さん本人も見たという人もいましたが。公園に鳥羽一郎の「男の港」の歌碑がありました。
丹賀砲台園地 
第一次世界大戦後、軍部は豊予要塞の拡充整備に力を注ぎますが、その一環として満州事変の勃発した1931(昭和6)年、丹賀砲塔砲台を築造します。砲塔砲台の他、地下壕に弾薬室・将校室・下士官室・作戦室・食堂などの施設を備えました。砲台は巡洋艦「伊吹(16000トン)」の後部砲塔(後継45センチ・砲弾渓30センチ・2連装・砲新調4.18メートル・射距離26800メートル)を移築したものでした。
この他、関崎砲台、高島砲台、愛媛県佐田岬砲台、沖の島砲台などとともに、丹賀砲台は豊予海峡の海の守りを固めるための要塞でした。
太平洋戦争勃発直後の1941(昭和16)年12月下旬、豊予要塞司令部、要塞重砲兵連隊に戦時編成が令達されました。
丹賀砲台実弾射撃暴発事故
1942(総和17)年1月11日、左右計8発の射撃訓練中、最後の8発目が暴発する大事故が起こったのです。

左砲ヨリ交互ニ1発発射シ、最後ノ1発トナリテ右砲発射ノ際、弾丸砲腔内砲身部付近ニテ破裂ス。砲室内ニアリシ連隊長以下16名即死、弾薬室及ビ其ノ下方ニ居リシ28名重傷又ハ軽傷、右砲身ハ砲口ヨリ約9メートル20センチの部位(砲耳部)折断シ、前半部砲身ハ前方約15メートルニ放擲セラル。左砲身ハ一見故障ナキガ如キモ駐退復座機ハ昨日喪失ス。原因断定セズ。(陸軍省『豊予要塞築城史』)

     
     
写真は勿論復元された丹賀砲塔ドームですが、地下から45度の斜坑を173段の階段を登ってドーム入り口にたどり着きます。現在は観光用に6人乗りのリフトで上下できますが、徒歩でコンクリート階段を往復してみました。地下室の部屋を取り巻く10センチぐらいはあろうかと思われるコンクリ壁が、無惨にも破壊されたままの部分を今に残していますが、30センチ遠距離砲の砲腔内暴発のものすごさが想像されました。
当時の事故の惨状を、丹賀国民学校の相良主殿が以下のように記録しています。

(8発目が発射されないので)学校に引き上げ私席についたとたん、物凄い音がしました。窓から顔を出して見ますと、要塞の上は真っ黒でした。学校の近くにも畳一枚ほどの鉄板が飛んできました。(中略)それから何分経ったでしょうか、駐在巡査が走ってきました。「学校の救急品を全部持ってすぐ私と要塞へ来てください。」というので、必要な品をとりまとめて出掛けました。
それは思わず息の止まる情景でした。地面に筵を敷き、爆死した何人もの将校や兵隊が横になって並んでいました。頭の形が壊れていた人もいたし、腕や足のない人もいました。大部分の人は出血がひどくすでにほとんど死んでいました。(中略)船着き場に駆けつけてみると50人ぐらいの兵隊が苦しみもが機ながらうめき声を立てていました。(中略)(カンフル注射を)次々と兵隊にうち続けました。2ダースで私の手持ちは品切れになりました。「兵舎にまだないか」と私は叫びました。兵隊が赤十字のマーク入りのトランクを持ってきました。(中略)(負傷者を佐伯に送ったあと)爆死者の遺体を海岸に収容し、木炭を下に、薪を上にして石油をかけて火葬にしました。(『丹賀砲台の爆発 秘められた惨事の記録』佐伯史談より)

まさに阿鼻叫喚の地獄絵を目の当たりにし、呆然とする暇なく救護に手を尽くす相良校長の姿が目に見えるようです。
     
丹賀砲台あとは公園になっていて、入り口に暴発の犠牲者16名の氏名が刻まれた鎮魂塔と、太平洋戦争でなくなった町内の方の慰霊碑が建っています。
群青の彼方は伊豫や秋時雨
小鳥来る水の子灯台はるかなる