Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 お言葉ですが…

     
10年位も前になるでしょうか、週刊文春に「お言葉ですが…」という高島俊男さんのエッセイが長いあいだ連載されていました。これが面白くて週刊文春を購読していたことがありますが、連載中から、以前の連載分が文春文庫で出版され、これも何冊か読みました。著者は中国文学が専門で、中国の古典などの該博な知識を元に、日常用語の間違いや疑問、適切な使い方についてを辛口の筆致で鋭く突いていて、読んでなるほどと思わせたり、目から鱗が落ちる思いをさせられたり、今までの間違いに赤面させられたりもしたものです。
 ところで、日常使われる言葉で、どうも嫌だなあとかおかしいなと思う言葉によく接するものです。私の場合は高島さんのように学問的な裏付けなどは全くなく、ただ感覚的に疑問に思うだけですが。
「無洗米」と打って、この語がワープロで出ないだろうと思ったら出てきてしまいました。ならば、今からこの語に異議を唱えにくくなってしまったなあ。洗わなくていい米、洗わない米だから、「不洗米」がふさわしいと思う、といいたくてこの語を打ったら、こっちの方はワープロでは出てきません。ワープロで一発で変換できる「無洗米」の方がもう市民権を得ているのでしょうか。
「あげる」
花に水を「あげる」、ペットに餌を「あげる」といい大人がテレビの園芸講座などで発言していますが、耳障りなことこの上なし!「あげる」は「やる」「与える」の謙譲語で、「差し上げる、おわたしする」という意味だと思います。何も花やペットにへりくだることはないと思います。「やる」「与える」が正しいと思うのですがね。「夕方、花の水やり頼んだわね」とは言っても、「花の水あげ頼んだわね」とは言わないでしょう。「水あげ」というと、切り花が水を充分吸い上げるように水中でで茎を剪ることを「水揚げ」といったり、船の荷物を陸に揚げることや、商売の売り上げ高、はたまた芸者が初めて客に接することなどと全く意味が違ってきます。水をやる、餌を与えるというのが普通でしょう。
「耳障り」
テレビキャスターが「耳障りがいい」と言っていましたが、耳に障るとは耳に快くないことだから「耳障り」がいいなどという言葉はそもそも矛盾しています。「耳障りが悪い」もおかしいので、聞いていやなことは「耳障りだ(な)」という形容動詞として使うべきだと私は思います。
「すごい」楽しい
若い人達のほとんどは「すごい」を副詞的に使っていますが、これもおかしいと思います。やはり「すごく」楽しい、でしょう。
言葉というのは時代によってだんだん変わっていくものだということは理解していますし、「本当は誤りであっても、それを使う人が増えて社会的に承認されれば、その誤りは、言語体系の中に組み込まれていく」という原則もあります。。今では「消耗」を「しょうもう」と読みますが本来の読みは「しょうこう」だったのが「しょうもう」と誤って読まれ、今日では誤読の「しょうもう」が定着しているという例もあります。
若い人々の間で「すごい楽しい」がなんの違和感もなく受け入れられ日常的に使用されていき、つまり市民権を得ていくのでしょう。
短文学に親しんでいると、言葉に敏感になりおかしな言葉の氾濫が気になってしようがありません。
散歩中に聞くラジオで、「ことばおじさん」という番組をよく聞きますが、リスナーからの言葉に関する疑問に梅津アナウナサーが答えるもので、なかなかタメになります。
ことばにこだわり、つい、いちゃもんをつけたがるのは、アッシもトシをとったということでござんすねー。