Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

アカデミー賞ダブル受賞

          
なんと、24日の朝日の1面トップ見出しとなった二つのアカデミー賞受賞記事である。「つみきのいえ」については事前に見たこともなく全く知らなかったが、「おくりびと」はノミネートされはしたが、かなり有力な外国作品があったので難しいだろうという大方の予想を覆しての受賞である。「おくりびと」はたしかに最近見たものでは、面白い邦画だった。しかし、地味な映画で、外国人が見て日本的な納棺の方法や日本人の死生観などが理解できるか疑問に思っていただけに、受賞は正直なところ私にはサプライズであった。かつて「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督)がノミネートされたが受賞できなかったように、日本人的抒情性や宗教性が世界には理解できにくいのではないかと思ったからである。
おくりびと」は、管弦楽団をリストラされたチェリストが故郷山形に帰って納棺師の職を得たものの、全く未知の世界へのとまどいや妻や地域の偏見の中で、上司の指導でだんだん仕事をこなせるようになるにつれて、死者への畏敬とこの仕事の尊さを感得していくというストーリーである。主演の本木雅弘は、青木新門の『納棺夫日記』をずいぶん前に読んで以来、この映画化を夢見ていたそうだ。プロの納棺師の手ほどきを受けた上とはいえ、本木の死者への畏敬の念を込めた旅立ちへの装束、化粧のしかたなどは、美しい様式美を見せる迫真の演技で感動的であった。

 日本の社会は古い時代から、死や死者、死に携わる人に対する恐れや穢れの意識を持って避けるという傾向があるが、この作品は、誰もが最後に体験する死を「恐れ」ではなく、「畏れ」て敬うものだという考え方に導いてもくれる。その意味では多くの人、とりわけ若い世代の人達に是非見てもらいたい映画と思う。
 高校生の頃、近所のおじさんが亡くなった。当時は公営火葬場がまだ無かったので、近くの山中の焼き場で火葬した。父の代わりに近所の男衆のあとについて火葬場に行った。パッと燃えてすぐ火が消えないように、棺を据えて山から伐ってきた生木を積み水に浸した稲藁で覆って火をつけるのである。遺族が翌朝きれいなお骨が拾えるように一晩かけて焼きあげるのであるが、途中順調に燃えているかを検分に行く役目は若い衆と決まっていた。大雪のなか、長靴の中に雪が入るほどの山道を提灯を提げて焼き場に行くのは大変怖かった。このときはまだ畏怖ではなく恐怖だった。
 大学生の頃、叔父が亡くなって家で送ることになり、座敷で湯灌をした。この作業は近い親戚の者が行うが、このときもちょうど父がいなくて名代で手伝いをした。座敷じゅう線香の煙を噎せるほどもうもうと立て、たらいに入れた熱いお湯で全身を清拭したあと、口と鼻孔と肛門に綿を詰める。自分も鼻孔に綿を詰めたが、思ったより多くの綿が入って驚いた。最後に両手を胸の上に組み数珠をかけるが、死後硬直があってなかなか曲がらず難しかった。すべての作業が終わり納棺できたとき、終わったという気がしてなにかすがすがしかったが、その後、悲しみがどっと来た。

 今は、納棺も火葬も遺族や身近な者が直接には関わらずに済むようになった。納棺師の見事な手際のよい送りの儀式で遺族も満足できる。病院で亡くなれば、病院スタッフが清拭も死に化粧まできれいに済ませてくれるし、葬儀もテキパキと滞りなく葬祭業者がやってくれる。だが、昔、村人について火葬し、近い親戚の一員として湯灌にたずさわるという、今では得難いいい経験をしたと思っている。生まれる命と共に命の絶える瞬間や、命を送る習慣や儀式というのは厳粛で大切なものである。したがって、納棺師や火葬場の仕事も人間にとって大事な仕事であり立派な専門職であることを認識している。映画の中で、名脇役笹野高史扮する火葬場管理人の「私の仕事は死者を安らかにあの世へご案内することです。私は新しい旅立ちへの門番です」と言った言葉が耳に残っている。
アカデミー賞審査員が、日本の「おくりびと」が死者の新たな「旅立ち」(departures)への案内人と理解し、日本の葬送の文化として評価してくれたことを喜びたい。あした、もう1回観に行こうっと。