Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

心友・堀 悌吉と山本五十六


堀悌吉はフランス駐在を経て、ワシントン会議に随員として加わり内外の軍事・経済情勢を分析して、非戦、軍縮の立場を貫き、また、ロンドン軍縮条約の調印・批准に奔走した。海軍中将となったが、戦争推進派による条約派一掃人事のため、予備役に編入された。
戦後は船舶関係の社長等を歴任、昭和34年(1959)に死去。
 山本五十六アメリカ留学や軍事力調査で、アメリカのとてつもない経済力と軍事力の大きさを知り、対米戦争や三国同盟に反対した。しかし、意としなかった連合艦隊司令長官に任命され、対米戦争の指揮官として真珠湾攻撃の作戦を遂行した。昭和18年4月、ソロモン上空で機上戦死。
 
 堀と山本は、海軍兵学校の第32期の同期生であった。二人は単に同期の桜としてではなく、我が国が敵国の軍事力・経済力に比べいかにに非力であるか、無謀な戦争を仕掛けるべきにあらずという点で一致した見解を持っていたことから、志を同じうする「心の友」となっていった。佐賀県生まれ、海軍兵学校34期卒業の古賀峯一は、ロンドン軍縮条約締結に尽力し三国同盟に反対した。山本戦死のあと、後任の連合艦隊司令長官に就任、日本の劣勢挽回に苦労したが、昭和19年3月、飛行艇と共に行方不明となり殉死。
 
 堀悌吉は、時局極まれるなか、連合艦隊司令長官として相次いで戦死・殉職した山本五十六・古賀峯一と堀悌吉との間で交わされた書簡と山本の「戦備訓練作戦方針等ノ件覚」を、「五峯録」として編纂した。この「五峯録」の中に「述志」が入っているのである。反戦の信念を持ちながら、戦争の指揮官として働かざるを得なかった二人の人間の苦悩を、生き残った堀悌吉が後世の我々に大事な記録として残してくれた意味をかみしめたいと思う。
 県立図書館で借りた『大分県先哲叢書 堀 悌吉 資料1』の「五峯録」から繙いていこう。