Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳



11月2日のblogで姫山メンヒルの巨石のことについて書いたが、巨石は古来、民衆の素朴な信仰の対象として崇められた。一方で、石は家・建造物の一部として古くから利用された。ヨーロッパでは石そのものに拠って住居を造ったり巨大な城郭・宮殿などを建造したが、日本は木材が豊富なこともあって、石を建造物の材料の主体として利用することはほとんどなく、木造建造物の礎石・土台や石垣・塀として利用されている。
先日、玖珠のウォーキングで角牟礼(つのむれ)城跡を訪れた。この城は、三方を急な斜面で囲まれた天然の要塞である角埋(つのむれ)山頂にある山城である。天正15年に島津軍6000人をわずか1000人で追い返したという難攻不落の城であっとして有名だ(そうだ)が、その石垣は「穴太(あのう)積み」といって安土城の築城技術と同じだという。穴太積みというのは、比叡山延暦寺の門前の石工集団「穴太衆」によって作られた、自然石をそのまま積む「野面積み」の一種のようだ。

別府の大部分は古くから石垣村といわれ、今でも北石垣・南石垣・石垣東・石垣西などの地名が残る。そして、いたるところに石垣や石塀を見ることができる。火山噴火による自然石を積んだ「穴太積み」にも似ている。

貞観9年(867)の鶴見岳地震では山頂の三つの池は熱水が沸騰し、大小の岩石・砂泥が数里に積もり3日間噴火が続いたという(『三代実録』)。別府はまた、慶長3年(1598)の5日間続いた大雨によって鶴見山に大きな地すべりが発生し、久光島が土石流で流され40名が死亡(『豊陽古事談』)など、土石流災害に何度も見舞われている。このように、何度かの鶴見岳の噴火による火山石が幾たびもの大雨による土石流となって、火山石はだんだん丸くなってあちこちに残っている訳である。これらの石を積み重ねて作った石垣塀は「別府石」とよばれるが、自然災害による副産物を旨く利用した文化遺産といえる。