Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

 北原人形芝居

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2月1日、中津市大字北原の原田神社の万年願が行われ、恒例の人形浄瑠璃芝居が奉納された。この人形芝居の歴史は古く、700年をさかのぼると伝えられている。伝説によれば、鎌倉時代、最明寺入道時頼が諸国巡業の途次、中津市大字湯屋において大病にかかり生死が危ぶまれたときに、北原に住む大貞薦神社の陰陽師である阿部大内蔵が加持祈祷に努め、北原の村人達もあれこれと心を傾けて看護に尽くしたため、時頼もほどなく全快を見るに至った。そのお礼参りと祝賀の行事が北原柿山の大師堂で執り行われ、その余興に人形芝居が演じられた。時頼はその演技を厚く称賛し「北原は海にも沿わず、山にもつかぬ土地柄故に、踊りを業とし渡世せよ」と言ったと伝えられている。これが北原人形芝居の始まりとされている。遠く鎌倉時代に創始された芸能は、その後、歌舞伎と人形操りに発展した。
人形や歌舞伎は相伝えられて次第に進境を見せ、江戸時代の文化・文政期に最盛期を迎え、北原の人形座九座と歌舞伎座数座は互いに技を練り芸を競った。そして、代々の藩侯の援護を受けて年とともに栄え、座元には高百十四石四斗を賜り、刀・脇差しを許され、諸役御免とされていたという。
万年願は毎年旧正月の四日に、北原のお伊勢道でおこなわれた。昔、この村に疫病が流行したとき、村人が永久にアヤツリを奉納することを誓って悪疫退散を祈願したという故事にのっとり、これまで中絶することなく奉納されてきた。

「傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段」は毎年、地元三保小学校の人形劇クラブの児童達が演じるのが恒例となっているが、よく練習を積んでいて、うまい。母子の別れの場面では観客のすすり泣きが見られるのは毎年のことである。

「伊達娘恋緋鹿子」は「潤色江戸紫」の改作で、安政二年に初演。八百屋お七が火の見櫓に登って太鼓を叩く場面。  



昭和32年、北原人形芝居は大分県の無形民俗文化財に指定された。一口に人形芝居といっても、浄瑠璃・三味線・囃子・口上など人形操りを一つの芸術として表現するにはかなり専門的な知識と技が必要である。オペラと同じように総合芸術である。これが営々と途切れることなく続いているのは、「北原人形芝居保存会」の皆さんの伝統を守ろうという強い意志とたゆまぬ稽古あってこそである。また、それを支える「三保の文化財を守る会」や三保小学校の人形劇クラブ、そして地域の方々のスクラムが年に一度のすばらしい芸術を楽しませてくれるのである。春を思わせる陽射しに恵まれ、3時間の人形芝居を存分に楽しむことができた。