Himagine雑記

思いついたときに気ままに書く雑記帳

雅号 その1 子規

       
子規の本名は正岡常規(つねのり)。子規と名乗ったのは明治22年(1889)、喀血した22歳の時だった。子規とはホトトギスのことであるが、ホトトギスは不如帰、、時鳥、子規、杜鵑などと書く。ホトトギスは赤い口を開けて鳴く様が結核患者の血を吐く様子に似ているということから、「啼いて血を吐くホトトギス」と言われたように、結核患者の代名詞であった。血を吐いて肺結核と診断された正岡子規は、
卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規

という句を詠んだ。血を吐いたのは5月の初めの卯の花ホトトギスの時期であったが、卯の花に卯年生まれの自分を、ホトトギス結核を重ねた句である。こんな句を作った彼は自分の命をあと10年と考え、そして「子規」と名乗る。結核というマイナスを自ら引き受けて生きる覚悟がこの名乗りに込められている。
 それにしてもホトトギスは変わった鳥だ。まず、ウグイスの巣に自分の卵を産み付けて育てさせる托卵という習性は狡いというかあっぱれというか。それに、声はすれども姿は見えぬ、という鳥だ。いつか、別府の柴石温泉の露天湯に浸かっていたとき、南から北の山へ空高く鳴き渡っていくのを遠望したことがあるだけだ。ふつう鳥は夜は鳴かぬが、ホトトギスは鳴くときは昼夜を分かたない。子規はずいぶんあとまでホトトギスを知らなかったようで、明治27年に初めてそれらしい声を聞いたが、ホトトギスの声という確信はなく、
それでなくとそれにして置け時鳥  という俳句を作っているが、なんだかけっこう子規もいい加減だ。子規がはっきりとホトトギスを知ったのは明治29年のことだそうだ。
ホトトギスといえば、佐々木信綱作詞の唱歌『夏は来ぬ』があるが、我が豊声会愛唱の男声合唱のための唱歌メドレー『ふるさとの四季』にも収められている。
卯の花の匂う垣根に 時鳥 早も来鳴きて 忍音もらす 夏は来ぬ
いい曲でで歌いやすく好きな歌なのだが、この歌詞の「時鳥」が実態に合わないような気がすると常づね思っている私である。なかなか姿を見ることのできない時鳥が、卯の花の匂う人家の「垣根」に来て鳴くだろうか。また、あのけたたましい声しか聞かない時鳥が静かに「忍音」など漏らすだろうか、などと素朴な疑問が深まるのだ。信綱先生に尋ねてみたいのだがそれは叶わない。
〈野球大好き人間〉の子規 
ところで子規は「雅号マニア」といわれるほど、小学校の時代から雅号を使い、その数150ほどもあったというから驚く。そのなかには「漱石」もあるそうだ。一番の傑作は「野球」であろう。ヤキュウとは読まず、「ノボル」と読む。彼の幼名「のぼる(升)」から、ノ(野)ボール(球)ともじったものである。こんな雅号を用いたために、ベースボールを「野球」と翻訳したのは子規である、という俗説が流布している。子規は確かに野球が好きで、喀血以前には「バット1本球1個を生命」と思ったくらいに熱中していた。後に新聞記者になってからも新聞『日本』に野球の解説記事を載せ、その際には子規流の用語の翻訳もしている。たとえば、ピッチャーが投者、キャッチャーが攫者、アウトが除外、ホームインが廻了という具合。走者、打者、飛球などは今の用語と一致する。しかし、子規は野球とは翻訳しておらず、つねにベースボールと呼んだ。今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうちさわぐかな  攫者として活躍した子規の短歌である。
四国松山は同年生まれの子規と漱石が住んでいたところであり、漱石は子規を俳句の師としたり、文学論を闘わせる文学仲間であった。後に漱石は松山中学の1年間の教師経験から小説『坊っちゃん』を書いた。今はその名にちなんだ「坊っちゃん球場」があり、プロ野球公式戦も開催される。
 没後百年の年であった平成14年(2002)に、子規は野球殿堂入りを果たした。新聞『日本』に野球の魅力や解説記事を書いたことが野球の普及に功績を果たしたと認められたからであるという。
(参考:『子規のココア・漱石のカステラ』坪内稔典著 NHK出版)